富山土人形 渡辺家          

富山土人形
 種類:土人形
 制作地:富山県富山市
 現制作者:廃絶 (技術は伝承されている)
  渡辺平(初代 嘉永元(1848)−大正5(1916))・・・・渡辺源吾(二代目 明治19(1886)−昭和31(1956))・・
  ・・・・・渡辺信秀(三代目 大正2(1913)−平成15(2003))

 富山土人形はよく知られている人形ではあるが、伏見、堤や花巻といった産地に比べ研究のあまり進んでいない産地であった。日本郷土人形研究会による郷土人形図譜「富山人形」(日本郷土人形研究会、2003)が唯一まとまった情報を提供してくれる資料ともいえる。
 最後まで残った富山土人形の最後の制作者である渡辺秀信の引退によって富山土人形は終焉を迎えた。
 富山土人形という言葉自体も一般化したのは比較的新しいようだ。郷土人形図譜「富山人形」(2003)でも地元で親しまれていた「富山土偶(でぐ)」を用いている。日本郷土玩具東の部(武井武雄、1930)では「富山土偶」とともに「富山土人形」も使っている

 富山土人形は幕末に藩主前田利保の命で制作が開始され、広瀬秀信により断続的に制作された。当初は大名家専属の製陶師・土人形師であったがやがて幕末から明治にかけて土人形の庶民への販売が可能となり制作数も増えていった。広瀬家では制作の中心が初代の秀信から二代目の覚治郎に移る明治10年代に広瀬の元で修行を積んだ多くの元藩士が土人形の制作を始めた。
 渡辺家もそのひとつで初代渡辺平(たいら)は富山藩の士族であったが、廃藩置県後の明治の初めに広瀬秀信の元に弟子入りし、土人形づくりを習得したといわれている。渡辺家は明治3年創業といわれているが、実際にはもう少し遅いかもしれない。
 富山土人形の最盛期は各工房が競い合った明治時代であったが、大正期に入り社会事情や収入の不安定さなどから人形制作者も減少して富山土人形は衰退を見せた。
 最後の制作者である渡辺信秀は昭和3年から父親の元で人形作りを始めた。工房の廃業が続き、さらに戦災により土人形の制作はさらに減少していった。渡辺家では戦後いち早く制作を再開したが、商業的に人形制作をしていたのは渡辺家だけになってしまった。
 渡辺家では廃業した工房からよい型を譲り受けたりして型の数は増えていった。福徳人形をはじめ注文は多く入ってはいたが制作は一人では応じきれず、採算面で見合わない大型の人形やサイズ違いなどの制作は縮小あるいは中止していった。

 三代目の渡辺信秀は戦前は富山城近くの丸の内で制作をしていたが、戦災にあって四ツ葉町に転居して制作を続けた。その後住居は近くの窪新町に転居したが四ツ葉町の建物はそのまま作業場として一人制作を続けた。
 しかし高齢により平成9年(1997)に引退を宣言して制作を中止した。この時点で富山土人形は実質的に廃絶した。
 渡辺家では土人形制作の後継者がいなかったため、昭和58年(1983)富山市の肝いりで希望者を募り、渡辺信秀を講師として土人形つくりを教えた。その後、教えを受けた主婦を中心に富山土人形工房で伝承会により現代風な土人形を「とやま土人形」として制作した。やがてかつての富山土人形の手法により制作にこだわったグループが分離して土雛窯として制作をしている。
               とやま土人形 伝承会
               富山土人形  土雛窯

 なお、富山土人形の譜系などに関しては「招き猫。猫図鑑」の「富山土人形 古作」(編集中)で扱う。


 富山土人形の招き猫や猫は白の胡粉塗りに黒斑で富山土人形に特徴的な赤、紫、黄などで彩色されている。型は何種類あるかは不明である。途中で廃業した工房からの型の移入も可能性がある。

渡辺家の招き猫 
 
招き猫(大)
左手挙げ 赤い首玉
紫と黄土色の前垂れ 短めの尻尾

手元にある3点の猫はすべて直接購入したもの
富山土人形ではよくいわれているように
膠が強く絵の具が剥離しやすい
ここにある招き猫でも
すでにかなり以前から剥離が進んでいる

左手を挙げた白猫に黒い斑
特徴的な額のT字型の黒い斑
赤い首玉に金の鈴と前垂れ
耳と目は黄色で目は黒で縁取り
黒い短めの尻尾

串に刺し底まで胡粉が塗られていることがわかる

高さ149mm×横63mm×奥行68mm 
底にある串の跡  

 招き猫(大)と(小)は最もよく見られる渡辺家の招き猫。

 招き猫(小)  
左手挙げ 紫の首玉
赤い前垂れ 少し長めの尻尾   

左手を挙げた白猫に黒い斑
特徴的な額のT字型の黒い斑
紫の首玉に金の鈴と赤い前垂れ
前垂れには金砂
耳と目は黄色で目に縁取りはない
尻尾は招き猫(大)に比べ長め

 高さ92mm×横47mm×奥行46mm
小さくても爪はしっかり描かれている  
  愛知のNさんの旧所蔵品?(左)

つくりはほぼ同じだが
ひげの跡がうっすら見える
 


 手元にある猫3点は渡辺さんの工房を訪問して直接購入したものである。すべて同時期の制作で同じような彩色になっている。
 白猫に黒の斑。額部分にT字型の斑が入る。富山土人形でよく使われる赤と紫で首玉や前垂れが描かれている。首玉や前垂れには金砂が施されている。招き猫には首玉に金の鈴がつく。耳や目は黄色で彩色されている。色数は少なくひじょうにシンプルな彩色となっている。なぜかひげは描かれていない。手元にある資料を見ても渡辺作の猫にはひげがない。とやま土人形工房に保管されている型にははっきりとひげが見られる。底まで胡粉が塗られており底にある穴は彩色の際に串を刺した跡と思われる。

鞠抱き猫  
目に黄色は入っていない 尻尾は黒で長い
ひげは描かれていない  
白猫に黒の斑
紫の首玉に赤い前垂れ
首玉には複数の鈴の型が残るが彩色はされていない
前垂れには金砂
目には黄色の彩色はなく黒い瞳のみ
耳は黄色で彩色
黄色に青(緑?)の柄の鞠を抱える
爪は赤で描かれている

高さ80mm×横60mm×奥行35mm

 

 前垂れは赤で金砂が施されている点は同じだが
首玉の色は作品によって異なるようである

 
 

愛知のNさんの旧所蔵品?(左)
顔の欠け(穴)からかなり薄手であることがわかる
額の黒斑はT字型になっていない
尻尾は黄が退色しているが虎柄
鞠の模様は赤のみで描かれる


福岡のHさん所蔵品(下)
右下の鞠猫はおそらく渡辺家のものと思われる
尻尾に注目、虎柄になっている


  


「鯛車 猫」(鈴木常雄、1972 私家版)

郷土玩具図説第七巻(鈴木常雄、1988覆刻)より

この図版では尻尾は虎柄になっている
鞠も何色かで塗り分けられている



おもちゃ通信200号(平田嘉一、1996)より
この図版では112の鞠猫の尻尾は黒一色
鞠は何色かで塗り分けられている

ちなみに111の招き猫も額のT字型の黒斑から
渡辺家のものと思われる
下の土雛窯の招き猫を参照のこと

 

とやま土人形工房に保管・展示されている渡辺家の二枚型の一部
招き猫(小)の型  表面に「十二」とある 型の裏表
表側 裏側
ひげもしっかりある 鞠猫の型



 土雛窯の招き猫と伝承会の招き猫。

参考品 
土雛窯の招き猫
上の所蔵している渡辺作の二体とは異なる型
右の招き猫は「おもちゃ通信200号」の111と同じ猫である。
とやま土人形伝承会の招き猫
左右の招き猫は渡辺作の招き猫(小)と同じ
ただし左手挙げ、右手挙げがあったことがわかる




     富山土人形工房
     八郷の日々「継承された土人形」   ※伝承会と土雛窯がいっしょになっている可能性がある  


 なお、郷土人形図譜「富山人形」出版時点の2003年には富山土人形の祖である広瀬家(本家)、最後まで制作を継承した渡辺家には多くの型が残されているという。現時点でどうなっているかは不明であるが、両家に残されている型の専門的な調査はなされていないという。今後、型の保存をしていくためにも専門家による調査と記録保存が必要である。調査・記録には専門的な知識が必要で予算措置も欠かせない。
 廃絶した富山土人形を後世に残すためにもぜひ資料が散逸しないうちに早めの調査が望まれる。




参考文献
郷土人形図譜「富山人形」 (日本郷土人形研究会、2003 郷土人形図譜第U期第4号)
招き猫尽くし (荒川千尋・板東寛司、1999 私家版)
日本郷土玩具 東の部(武井武雄、1930 地平社書房)
「鯛車 猫」(鈴木常雄、1972 私家版)
郷土玩具図説第七巻(鈴木常雄、1988覆刻 村田書店)
全国郷土玩具ガイド1(畑野栄三、1992 婦女界出版社)
おもちゃ通信200号(平田嘉一、1996 全国郷土玩具友の会近畿支部)
招き猫博覧会(荒川千尋・板東寛二、2001 白石書店)