古作 富山土人形    編集続行中


 富山土人形はよく知られている人形ではあるが、伏見、堤や花巻といった産地に比べ研究のあまり進んでいない産地であった。日本郷土人形研究会による郷土人形図譜「富山人形」(日本郷土人形研究会、2003)が唯一まとまった情報を提供してくれる資料ともいえる。
 最後まで残った富山土人形の制作者である渡辺信秀の引退によって富山土人形は終焉を迎えた。
 富山土人形という言葉自体も一般化したのは比較的新しいようだ。郷土人形図譜「富山人形」(2003)でも地元で親しまれていた「富山土偶(でぐ)」を用いている。日本郷土玩具東の部(武井武雄、1930)では「富山土偶」とともに「富山土人形」も使用している。
 ここでは一般的に使われている「富山土人形」を使用するものとする。

 富山土人形は幕末に藩主前田利保の命で制作が開始され、初代広瀬秀信により断続的に制作された。当初は大名家専属の製陶師・土人形師であったがやがて幕末から明治にかけて土人形の庶民への販売が可能となり制作数も増えていった。広瀬家では制作の中心が初代の秀信から二代目の覚治郎に移る明治10年代に広瀬の元で修行を積んだ多くの制作者が土人形の制作を始めた。
 廃藩置県後の明治の初めに職を失った多くの元藩士が広瀬秀信の元に弟子入りした。渡辺家、安川家、田島家などの元藩士もこのころ広瀬秀信の元で土人形づくりを習得したといわれている。渡辺家の創業は明治3年といわれているが、これは弟子入りして制作を始めた時期かもしれない。
 富山土人形の最盛期は各工房が競い合った明治時代であったが、大正期に入り社会事情や収入の不安定さなどから人形制作者も減少して富山土人形は衰退を見せた。
 最後の制作者である渡辺信秀は昭和3年から父親の元で人形作りを始めた。昭和になり戦時中は材料の粘土も軍需産業用に回され、工房の中止や廃業が続き、さらに富山市は太平洋戦争の空襲による戦災で制作者や型も失い土人形の制作は壊滅的となった。渡辺家では戦後いち早く制作を再開したが、商業的に人形制作をしていたのは渡辺家だけになってしまった。少数であるが広瀬ツヤは昭和20年頃まで制作をしたようである。
 戦災に遭った渡辺家は丸の内から四つ葉町に転居して無事だった型をもとにいち早く制作を開始した。廃業した工房からよい型を譲り受けたりして型の数は増えており、注文も多く入ってはいたが制作は一人では応じきれず、採算面で見合わない大型の人形やサイズ違いなどの制作は縮小あるいは中止していった。その後住居は近くの窪新町に転居したが四ツ葉町の建物はそのまま作業場として一人制作を続けた。やがて渡辺信秀も高齢となり、人形制作の後継者がいないため、平成9年(1997)に引退を宣言して制作を中止した。この時点で富山土人形は実質的に廃絶した。平成15年(2003)に最後の専業制作者である渡辺秀信が亡くなり、富山土人形は廃絶した。

富山土人形その後
 渡辺家では土人形制作の後継者がいなかったため、昭和58年(1983)富山市の肝いりで希望者を募り、渡辺信秀を講師として土人形つくりを教えた。その後、教えを受けた主婦を中心に富山土人形工房で伝承会により現代風な土人形を「とやま土人形」として制作した。やがてかつての富山土人形の手法による制作にこだわったグループが分離して土雛窯として制作をしている。
               とやま土人形 伝承会
               富山土人形  土雛窯



 富山土人形の制作者   主に郷土人形図譜「富山人形」 (2003)を参考に編集 

 広瀬家(本家)   富山市石坂
    広瀬秀信(初代 文政9年(1826)−明治17年(1884))・・・・・覚次郎(二代目 明治8年(1875)−昭和32年(1957))・・・
       ・・・・・その(三代目 明治41年(1908)−平成11年(1999))

 広瀬家(分家)   富山市愛宕町
    広瀬安治郎(初代 安政2年(1855)−昭和9年(1934)・・・・・常太郎((二代目 明治20年(1887)−昭和15年(1949))・・・
       ・・・・・ツヤ(三代目 常太郎妻 ?−1970年代初頭))

 渡辺家   富山市丸の内から四ツ葉町
   渡辺平(初代 嘉永元(1848)−大正5(1916))・・・・渡辺源吾(二代目 明治19(1886)−昭和31(1956))・・
       ・・・・・渡辺信秀(三代目 大正2(1913)−平成15(2003))

 渡辺家(分家)   富山市諏訪川原
   渡辺三郎((初代 明治20年頃(1890頃)−昭和20年代(1950頃))
     渡辺平の三男、渡辺源吾の兄弟

 安川家   富山市神通町
   安川浅次郎((明治13年(1880)−昭和20年(1945))
      昭和20年8月の空襲により戦災死。浅次郎の先代は広瀬秀信の弟子であった可能性があるとのこと

 福井家   富山市神通町
   福井??(初代?     )・・・・・福井常次郎(二代目? 明治8年(1975)−昭和19年(1944))
      初代(常次郎父)も土人形を制作していたとのことで広瀬秀信の弟子であった可能性があるとのこと

 田島家   富山市神通町
   田島則安(初代 明治3年(1870)頃−昭和8年(1933))
      大規模に制作していたが人形制作の後継者はいなかった

 田刈屋の渡辺家   富山市田刈屋
   渡辺竹次郎(生没年不詳)  丸の内の渡辺家とは親戚関係なし
      ※田刈屋は屋号ではなく町名

武井武雄(1930)記載による制作者
 武井武雄(1930)には次の制作者が挙げられている。
 代表制作者として愛宕町の廣瀬安治郎と総曲輪丸の内の渡辺源吾の名前が挙げられ多作であったことがうかがえる。さらに広瀬覚次郎も多作であったという。そのほかに田島則安(神通町)、渡辺修三(諏訪川原)、安川浅次郎(神通町)、福井良一(神通町)、渡辺竹次郎(市外 田刈屋)と大正末期から昭和初期はまだ制作販売していた工房は多かったようである。
           ※渡辺修三(諏訪川原)は渡辺家分家の渡辺三郎と同人物であると思われる

 富山土人形は戦前にはほとんどが廃業してしまい、廃業した窯元の型の一部は渡辺家に引き取られているため招き猫を含む土人形の製造元はわかりにくくなっている。


富山土人形古作
 渡辺家以外の作品も含まれているものと思われる。
 画像はネットオークションの出品品が多い。そのため掲載許可をとれていない(とれない)ものも多い。
 また、今回紹介している以外にも富山土人形の招き猫や猫が多数存在すると思われる。情報がありましたらトップページのアドレスにご連絡いただければありがたいです。

富山土人形古作の招き猫および猫 画像をクリックするとそれぞれの猫にいきます
@愛知のNさんの旧所蔵品? A愛知のNさんの旧所蔵品?
B(左)とC(右) BCの2点共に掲載許可がとれていない(連絡いただければ正式に承諾依頼します)
D右の招き猫を購入したもの E Dと同じ個体
F静岡の日本招き猫館所蔵 龍昌寺授与品 G同左
H(上左)、I(上右)およびJ(下)の3点共に掲載許可がとれていない(連絡いただければ正式に承諾依頼します)
この人形と同型のものは土雛窯にもあるようなので
今度訪問して確認してきたい 
JはIと同じ個体  
K福岡のHさん所蔵 L日本招き猫館所蔵
M江南堂出品 Nはたして富山か?
郷土人形図譜「富山人形」(2003)より
正式許可を取っていないので
詳細な画像は掲載できない


高さ19.0cm×幅10.0cm
蛇腹襟のような前垂れをつけている
郷土人形図譜「富山人形」(2003)  


                                       

おおさかeコレクション(大阪府立図書館)に見る富山土人形の猫 
 巨泉玩具帖より越中富山土人形  青い首玉の招き猫
巨泉玩具帖より富山土人形猫 伏見タイプの座り猫
よくある型であるが見た記憶がない 
巨泉玩具帖より富山土偶猫 渡辺家でよく見られる鞠猫
彩色も変わっていない



 渡辺家で一般的に制作されていた招き猫。伝承会や土雛窯でもよく制作されている。

@愛知のNさんの旧所蔵品?
紫の首玉に赤の前垂れ 左手挙げ
斑と尻尾は黒で彩色 底に空気抜きの穴
左手挙げの招き猫
渡辺家の招き猫と思われる
作りも後年の渡辺信秀作とほぼ同じ
耳が赤で彩色されていることが異なる
前垂れに鈴がつくが彩色はされていない
目は黄色で縁取りなし、黒で瞳が描かれている
ひげが描かれている
頭の黒斑はT字型のように見える
尻尾は黒

富山人形で特徴的な色で彩色されている


サイズは不明であるが、
渡辺信秀作のものと同じであると思われる
参考品
渡辺秀信作の招き猫

耳以外は上の猫と
ほとんど同じ色が使われている


 長年、由来が不明であった招き猫。大正10年(1921)に金沢市内にあった龍昌寺で畜霊慰霊祭の時の授与品であることはほぼ確実となった。
正面の丸金の鈴?は猫寺の言い伝えによる金比羅からくる。
 富山土人形には首玉の右側に大きな鈴がつくものがかなり多くある。作者は不明であるが、これも同じ系統のものと思われる。小型のものもあるがこれは慰霊祭の授与品であるかは不明。
           詳しくは『加州猫寺調査隊』(調査続行中)で

FG加州猫寺の招き猫  
 授与当時の彩色の色がよくわかる 
平田玩具店所蔵品は耳と口の色は
退色しているが、その反面
退色の仕方がわかる
F日本招き猫館(植山利彦氏所蔵品)  
ひじょうに状態がいい 左手挙げ
金の大きな鈴  加州猫寺の刻印(押し印)がある
平田玩具店所蔵品(下)
丸金の鈴?と右の大きな金の鈴が特徴  左手挙げ
首玉と鈴を赤で彩色後、金の鈴を塗っている 尻尾は黒で長い
加州猫寺の刻印(押し印)
自宅保管品のひとつ  
富山人形によくある絵の具の剥離が激しい 刻印部分は薄いので破損しやすい 

大正10年(1910)に金沢市の龍昌寺で開催された畜霊慰霊祭の授与品であると思われる
日本招き猫館所蔵品はひじょうに状態がよい個体、彩色の剥離や退色もなく、制作当時の様子がわかる

左手挙げの白猫に黒の斑
赤い首玉の右横に大きな金の鈴(立体的になっている)を付ける
正面に丸金の文字(これは金比羅の「金」と思われる)の鈴?をつける
黄色い目に黒の瞳 ひげも描かれている 退色した人形ではわかりにくいが耳、口、爪はピンクで描かれている
このピンクは大正期の人形によく見られる。他の富山土人形にも見られるのかは不明
尻尾は黒で描かれ長い
背面に「加州猫寺」の型押しがある
加州とは加賀の州(くに)のことである   ※信州=信濃の州と同じ

            高さ   mm×横  mm×奥行  mm

G日本招き猫館所蔵品
正面に金の鈴 色使いは大きいものとほぼ同じ
右に大きめの金の鈴がつく 斑と尻尾は黒で描かれる
我が家の所蔵品(下)
 
5点まとめて入手した
そのうち2点は粟ヶ崎方面、
1点は野町近辺から出たもので
他の2点は不明とのこと
粟ヶ崎も野町も金沢市内あるいは近郊である
この招き猫も耳がピンクで彩色されている
加州猫と同時代の可能性はあるが確証はない


高さ65mm×横34mm×奥行37mm
2000年瀬戸の招き猫まつりで江南堂出品(下)  
瀬戸の招き猫まつりに
骨董屋の江南堂が出品したもの
上の2点とまったくつくりは同じ

小さい方の招き猫に関しては畜霊慰霊祭の授与品であるかは不明
金沢近隣では多く見つかっているようである
彩色の特徴などはほとんでFと同じ ただし小型であるので正面の首玉に付く鈴は通常の金の鈴
首玉の右には大きめの鈴が付く
眉毛は省略されている 背面の型押し文字もない



D我が家の所蔵品
左手挙げ 長い尻尾
首玉の左に大きな鈴

ひじょうに特色のある招き猫
左手挙げで白猫に黒の斑
尻尾は長く、猫の前面にまでおよび、黒く塗られている
赤い首玉にやはり赤い前垂れのようなものが付く
首玉の右に大きな金の鈴が付くのが特徴
目は黒く小さい ひげが描かれている
眉毛が短い線の並びで描かれる
口の彫りは深い
これらの特徴は加州猫寺の
授与品と同じであることから

同じ制作者による可能性がある

高さ187mm×横88mm×奥行76mm
空気抜きの穴
E     
保存していた画像から見つかったもの
傷などの傷み具合から、
入手したDの招き猫の出品時の画像と思われる



M江南堂出品の招き猫  
 
2004年の瀬戸の招き猫まつりで骨董屋の江南堂が出品
左手挙げの招き猫
@の招き猫より大型
首玉の彩色は保存されていないが、金縁の赤い前垂れに鈴が付く
首玉の右の大きな鈴はないが加州猫寺授与品に面相などは似る
サイズ不明
 大きな前垂れはないが
郷土人形図譜「富山人形」(2003)の猫に
似ている気もするがどうであろうか?



                                 



BC      ネットオークション出品品
 
B
赤い首玉に紫?の前垂れ 左手挙げで手は後付け
右側に大きな金の鈴 尻尾は彩色されていない

富山土人形のどこの作かは不明
白猫に黒い斑
左手挙げで左手は手びねり後付けのように見える
赤い首玉の右側に大きめの金の鈴がつく
これは加州猫寺の授与品と共通する
ひげがある
尻尾は長く彩色されていない
耳、口、爪は赤で描かれている
目の上に一本アイラインが入る

高さ約200mm×横約90mm×奥行 ? mm
空気抜きの穴はない
顔のパーツが中央にまとまっている 長い尻尾は前まできている
C    
左手挙げ 赤い首玉に前垂れなし
右に大きな金の鈴がつく 長い尻尾は虎柄


白猫に黒い斑
耳が大きい
赤い首玉の右側に大きめの金の鈴がつく
前垂れはなし
尻尾は黄色と黒の虎柄
目には黄色が入り、黒で目がはっきりと描かれている
ひげがある
他の招き猫に比べ面相が異なるように思える



高さ約150mm×横約75mm×奥行 ? mm
空気抜きの穴はなし
黄色の目の下地に黒で目の輪郭と瞳
首玉の後には模様なし 爪は赤で描かれる



N富山土人形古作?  
はっきりいって富山土人形の古作であるか自信はない
多く見ているうちに作風が似ているので
今回掲載に踏み切った
目の描き方は他には見られない




H    
右手挙げ 左に大きな金の鈴
赤い首玉に赤の大きな前垂れ 尻尾は前の方まで伸びているようにみえる
そこには空気抜きの穴
ひげはない 大きな鈴には福の文字が確認できる
富山土人形と思われる一品
土雛窯にもあるようなので詳細を見てくる予定
白猫に黒の斑
右手挙げで赤い首玉と大きめの前垂れをつける
首玉の模様は不明
前垂れには金の模様
爪、耳、口は赤で描かれる
目は黒い瞳のみ?
彩色されている部分の尻尾は短い
前の方まで伸びている可能性もある

ひげはないと思われる



I       
 
J        
H同じ型であると思われる
斑の位置など彩色に若干の違いはある
左側がわかる画像がないが
鈴はあまり本体から突出していないように見える

IとJは同じ個体


                                 

K福岡Hさん所蔵品  
  
左手挙げで豪華な首玉
左手挙げで彫りの深い口         前までくる長い尻尾は黒で描かれる
機微球の右に大きな金の鈴 手は後付け
この猫は他で見かけたことがない
右側の大きな鈴や点描の眉毛、
口の彫り込みの深さなど

加州猫寺の作風に似る部分がある
手は後付けと思われる
鞠猫との比較から高さは25cm程と思われる
空気抜きの穴がある  



L日本招き猫館の子福猫  
 招き猫尽くし (荒川千尋・板東寛司、1999)より 
日本招き猫館 植山利彦所蔵品と思われる

残念ながら訪問したとき画像に収めていないので
土雛窯の作品を参考画像として掲載する

「土が富山の土と違うような気がする」と
植山さんのことばが気になる

土雛窯による子福猫(下)  
オリジナルに仔猫を6匹追加して子福猫となっている



招き猫以外の猫

A愛知のNさんの旧所蔵品?
青い首玉に赤の金砂付き前垂れ ひげはない
裏面の彩色なし 鞠は赤い線のみ
渡辺家の鞠猫と思われる
目に黄色は入っておらず、黒い瞳のみ
耳は赤、首玉は群青で彩色されている
首玉には鈴が複数付くが彩色はされていない
鞠は赤い柄以外塗られた形跡はない
尻尾には黒の縞が入るが黄色の彩色はない
鼻や額の黒斑の描き方はかなり異なる
ひげは描かれていない
顔の欠けから人形自体かなり薄いことがわかる

サイズは不明
渡辺信秀作の鞠猫(右)


富山眠り猫  

ネコ(木村喜久弥、1958)より

富山土人形の眠り猫
現物は見た記憶はない
この書籍以外で紹介されたことがあっただろうか?
牡丹の花が腰のあたりにつく、日光の眠り猫であろう

八橋にも同じような彩色の眠り猫がある



   ブログ 八郷の日々「継承された土人形」   の中に土雛窯の紹介と今回の画像にはない古作の招き猫があります。 
   とおん舎 めでたい郷土玩具 〜富山土人形から   土雛窯所有の古作H〜JとKの画像あり 





                                    






参考文献
郷土人形図譜「富山人形」 (日本郷土人形研究会、2003 郷土人形図譜第U期第4号)
郷玩文化No.128・他(郷土玩具文化研究会会報、1998・他)
招き猫尽くし (荒川千尋・板東寛司、1999 私家版)
日本郷土玩具 東の部(武井武雄、1930 地平社書房)
「鯛車 猫」(鈴木常雄、1972 私家版)
郷土玩具図説第七巻(鈴木常雄、1988覆刻 村田書店)
全国郷土玩具ガイド1(畑野栄三、1992 婦女界出版社)
おもちゃ通信200号(平田嘉一、1996 全国郷土玩具友の会近畿支部)
福の素62号(日本招猫倶楽部会報、2015)
招き猫博覧会(荒川千尋・板東寛二、2001 白石書店)
ネコ(木村喜久弥、1958 法政大学出版局)