=^・^=山谷堀を歩く  西方寺(道哲庵)跡を訪ねて

 招き猫伝説で必ず紹介される西方寺は関東大震災前までは現在の台東区の待乳山聖天の近くにありました。新吉原へ向かう山谷堀沿いにあったのです。その山谷堀も現在では暗渠になってしまい、その姿を見ることはできません。西方寺も震災後の1927年に現在の西巣鴨に移りました。

現在の西方寺(東京都豊島区巣鴨)  西方寺の招き猫

     西方寺(西巣鴨)訪問記(2002年)          西方寺(西巣鴨)訪問記(2005年)

 今戸神社へはよく行くのに山谷堀は歩いたことがありません。すでに暗渠となってしまった山谷堀も橋柱だけは残っています。そこで西方寺(道哲庵)跡の散策も兼ねて歩いてみることにしました。
                                   実施日 2006年(平成18年)1月4日


         
               江戸明治東京重ね地図より (明治40年前後)

 当日は隅田川から遡ることにしました。したがって山谷堀水門をスタートに今戸橋から日本堤橋までです。

山谷堀水門
 隅田川へ流れ出る水門
 唯一水を見られるところだ。
今戸橋
 山谷堀のいちばん下流に
架かる橋。
 震災後、すぐに着工され、
ぎりぎり大正年間に
完成した。
山谷堀公園
 堀の川筋がわかる。
 桜の季節はきれいだろう。
このあたりは
中央部分は
水が流れるようになっている親水公園。
聖天橋
 その名前のとおり、
待乳山聖天の裏にあたる
吉野橋
 ここで吉野通りを横切る。
 目的の西方寺跡はこの向かいのはず。
吉野通りの向こう側
 茶色の建物のあたりに
西方寺はあったと思われる。
 山谷堀公園は
ここで少し東方向へ折れた
方向へ伸びている。
 写真右手の樹木が公園の木


 この正面あたりに西方寺(道哲庵)は
あったと思われる。
道路を右折すると遍照院がある。
 その墓地と接するように
西方寺はかつてあったはず。
 残念ながら
道哲庵を解説する表示などはない。
正法寺橋
 かつては正法寺も
かなりの敷地があったようだ。
山谷堀橋    
 山谷堀橋来歴
本橋ハ帝都復興事業
トシテ新設シタルモノナリ
一 起工 昭和四年五月
一 竣工 昭和四年九月
一 工費 壱萬九千四百圓
   東京市
とある。震災での復興事業の
一環で新設された橋で
同様の橋にはこのプレートが残っている。
紙洗橋
 これも復興事業のプレートが残っている。
地方新橋
 この橋にもプレートがある。
地方橋
 山谷堀公園はここで終わり、
東京都下水道局
日本堤出張所の材料置き場につながる。
 向こうに見える通りは「どて通り」
 公園はないが道筋で
堀の後を追跡できる。
このまっすぐの通りが堀の跡
右手の工事箇所は
元日本堤公園、
その先の白っぽい建物が
警視庁第六方面本部で、
左折すると吉原大門になる。
山谷堀はこのあたりで終わりになる。
堀の跡はさらに進み、
日の出会通りを過ぎても
通りはまっすぐに進む。
土手の伊勢屋
 やがて左手に木造の建物が見えてくる。
人気の天ぷら屋。
創業は明治22年でごま油を
使用し、当時の味が受け継がれている。
 創業は明治22年。
 丼からはみ出る程の
天ぷらがのっている。
 店の名前に土手が付くのも
かつての名残。

 左に緩くカーブし、どて通りに合流する。
 しばらくはどて通りに沿っていく。
 やがて明治通りと合流し、
通りは左に緩くカーブするが、
どて通りの延長方向に
道が続いている。
これかかつての堀の跡になる。
このまっすぐな通りは投込寺で有名な
浄閑寺まで続く。
 ここで堀の跡はほとんどわからなくなってしまう。浄閑寺の西側を
巻くようにある道が堀の跡で千住方面は線路に
よって分断されてしまうが、丹念に追えば道沿いに追跡できる。
 また、日光街道を横断して音無川へつながる
部分は現在の道の形にも当時の堀の川筋がよく残っている。
 橋はなくなっても、三ノ輪橋の駅名にかつての名残が残っている。


 残念ながら、道哲庵跡は表示も何もありませんでした。山谷堀も日本堤橋の確認ができませんでした。距離もそれほどないので、もう少し気温の穏やかな日に散歩しながら歩いてみるとしよう。三ノ輪橋周辺は都電を利用しやすい環境にいるので、もう少し川筋を追ってみたい。
 最終的には音無川まで追跡できればと思っています。