西巣鴨西方寺の招き猫を見に行く   2005年2月訪問


 「福の素」42号を見て驚きました。招き猫関係の本には必ずといってよいほど紹介されている西方寺の招き猫ですが、門柱からなくなっているというのです。職場から歩いて10分ほどの距離にあるのにしばらく行っておらず、まったく気がついていませんでした。
 なくなったとは言っても場所が変わっただけでした。これまでの門柱から奥の墓地の中に移動したとのことです。先日職場の通信紙に紹介したばかりですので現状を把握しておく必要があります。天気の良さそうな休日を選んで見てきました。

  かつての画像へ

 確かにいません。右側の門柱上にいたはずの招き猫がいません。福の素では吉原の花魁「高尾の墓」の傍らにあるとのこと。西方寺を奥に入っていくと表から見ていた以上に奥行きがあります。さてどこだろうとウロウロしていたのですが見つかりません。知らないうちに隣の寺の墓地に入り込んでしまいました。この墓地の周りには寺がぐるっと囲んでいてどこまでがどの寺の墓地か境界がはっきりしないのです。
 もう一度初めからやり直しです。よく見ると「高尾之墓」の案内の石柱が立っていました。それに沿っていくとありました。ちょうど隣にある旧豊島区立朝日中学校の体育館の角あたりになります。

右の門柱上にかつてあった ここにいた 「高尾之墓」案内

 あの招き猫は高尾の墓を守るように座っていました。この高尾太夫は吉原の代表的名妓でその名を名乗った遊女は11人いたと言われています。高尾太夫は三浦屋四郎左衛門方の抱え遊女であり、この2代目高尾は万治高尾・仙台高尾と呼ばれ落語の「仙台高尾」のモデルとなっています。東浅草の春慶院にも墓があるそうです。万治のころの遊女は櫛も笄簪もさしておらず、帯も前結びをしておらず、後世の花魁からみるとひじょうに地味で、格式、教養ともに非常に高かったそうです。
 かつて西方寺が日本堤にあったころ、小塚原の刑場に引かれていく囚人を日本堤の土手で念仏を唱えながら見送っていた和尚が高尾と恋仲になったという「道哲」で、道哲の人情の厚きに感激し、その果ては恋に落ち入ったと伝えられているそうです。道哲の開基した寺が「西方寺」で、西方寺そのものを「土手の道哲」と呼んでいたそうです。
 かつて日本堤から巣鴨に移る際、高尾の墓を掘ると2つの骨壺が出てきたそうです。1つは道哲、もう一つは二代目高尾といわれ、その骨壺からは遺骨と一緒に高尾が肌身離さなかった小指よりも小さい襟かけ地蔵と常用していた銅鏡が出てきたそうです。いずれも寺宝となっているとのことです。
 道哲や高尾に関しては調べていくと異説が多くあり真相は不明な点が多いようです。

 「高尾之墓」の左下に座っている 正面
手の痛みもひどくなっている  顔の痛みが痛々しい

 やっと見つけた招き猫ですが、3年足らずの間にかなり傷みが激しくなったようです。もしかすると一部崩壊したのではと思われるような様子です。きっとこの傷みのために低い今の位置におろされたのではないかと思います。まさに高尾の墓を守るように鎮座しています。いろいろと有名な高尾太夫であるだけに招き猫も高尾の飼っていた猫と間違われやすいのですが、これは同じ三浦屋の薄雲太夫がかわいがっていた猫です。現存はしませんが、この薄雲太夫の命を守った猫の猫塚が日本堤にはあったそうです。残念ながらその猫塚の写真は今までに見たことがありません。現在あるこの招き猫の由来ははっきりしませんが、巣鴨に移転した当時のもののようです。たぶん猫塚の代わりに作られたものなのでしょう。

真鍮(銅?)製の灯籠 高尾塚

 高尾の墓の横にある灯籠には「土手道哲」、「待乳山」、「投込寺」、「山谷堀」、「今戸橋」、「土手八丁」などの文字が見られます。
 それぞれかつて日本堤にあった頃の名残です。「山谷堀」も今は暗渠になってしまいました。吉原通いでかつて賑わった山谷堀は石神井川・音無川の延長であることを今回調べていて始めて知りました。架かっていた橋もなくなってしまいましたが橋柱のみすべて現存するとのことです。「土手八丁」とは吉原大門前の吉原土手の別称でその道を土手通りといい、土手がなくなった今でもその名称は残っています。そういえば「土手の伊勢屋」という江戸前の天ぷら屋も大門近くにありました。
 この招き猫のふるさと「土手の道哲」跡を今度訪問してみることにしよう。


                   弘願山西方寺  東京都豊島区西巣鴨4−8−42