目呂二の招き猫 その1 芸者招き

目次
はじめに
新たに見つかった芸者招き
芸者招き比較表
再録  自性院タイプと痴娯の家タイプ
芸者招きは芸者だったのか?
ついに姿を現した芸者招き
今後の問題
追加資料 縁福猫の賛助者書簡と申込書
追記 賛助者東郷彪氏と初代水谷八重子氏について
10 縁福猫と初代水谷八重子 その後
11 縁福猫自性院タイプについての問題
12 岩下コレクションに見る縁福猫「痴娯の家タイプ」
13 縁福猫(いわゆる芸者招き)についての新事実
14  初代水谷八重子氏と猫 その後
15  これで見納め痴娯の家コレクション
16  縁福猫(いわゆる芸者招き)の貯金玉
17 初代縁福猫「痴娯の家タイプ」の底の構造
18       


1 はじめに
 河村目呂二といえば招き猫ファンの間では「芸者招き」といわれるくらい有名な作品です。しかし現物を見る機会はなかなかなく、後年にかなり摸した作品もつくられているようです。現在でも復刻版とでも言うべき芸者招きがつくられていますが、やはり大量生産品という感じです。
 また、この「芸者招き」についての詳しい情報がほとんど見あたらないのも現実です。今回、河村目呂二の関係者経由で実娘の清原ソロさんから、芸者招きについての情報をいただきましたので、その情報を中心に紹介します。

「芸者招き」は百貨店等での頒布会用と本人夫婦の趣味も兼ねて1920年代(大正末〜昭和初期)につくられたようで、パターンは2種類以上あったようです。しかし今となってはその種類や制作数も定かではないようです。作りかたは、目呂二が型をとったものを素焼きにして、一点一点手仕事で彩色したそうです。彩色は目呂二・スノ子夫妻と、夫妻の後輩にあたる東京美術学校・女子美の学生が手伝いに来ていたこともあったそうです。

 「痴娯の家タイプ」の写真を清原ソロさんに見ていただいたところ、このタイプの芸者招きはちょっと記憶に無いとのことでした。実物を見てみないとわからないが、むしろ目呂二と近しい方の作品ではないかとの意見です。
 私見と断っていますが、情報をいただいたUさんは「私はこれは目呂二の作ではないかと思っております。下書きやデッサンに大変似た表情の物があり、また、美校彫塑科出身らしい肉感的なフォルム、そして別シリーズの「目呂二人形」(添付画像参照)に着物の色柄が似た物があることetc,。 しかし写真だけでははっきりしないので、機会があれば現物を見てみたい」とのことでした。

   しばらく目呂二に関しての更新がしていませんでしたが、その後いろいろと変化がありました。はっきり存在が確認できていた初期縁福猫(痴娯の家タイプ)は現在3体確認できています。痴娯の家に保管されていた旧岩下氏所有の一体は現在別の所有者の元にあります。もう一体は「メニュー13 縁福猫(いわゆる芸者招き)について」の飛び入りの縁福猫についてです。最後の一体は今回連絡があった方の手元にあります。どれも多くの所有者の間を転々としたものでなく、前所有者が目呂二から入手して現所有者に渡ったものと思われます。見つかっている個体数が少ないためまだまだ不明な点はたくさんあります。
 今回初期縁福猫(痴娯の家タイプ)の底の構造についてわかってきましたので久しぶりに更新したいと思います。                      2019年8月






       
   目呂二関係者所蔵    痴娯の家所蔵    骨董市で
               
  「構造社展」図録    自性院所蔵
   『招き猫の文化誌』(宮崎良子 1988 青弓社)
   より許可を得て掲載
 「ねこの手帳」2006年5月号
  縁福猫 痴娯の家タイプ
  (大きな画像を見る)

所有者である岩下鼎氏の許可を得て掲載
          
                痴娯の家タイプと類似の色使いの目呂二人形

 なお、その後Uさんに伺ったところ、構造社展に出品したものの内、芸者招きと灰皿は清原ソロさん所有の作品だそうです。それ以外に目呂二および清原ソロさんの関係の方が所有している作品もありますので、それに関してはここでは「目呂二関係者所蔵」と記しておきます。
 そこで手元にある「構造社展」図録(のカラーコピー)と「猫の手帳」の芸者招きの図柄の細部を特徴を比較したところ、両者は同一のものである可能性が大きいことがわかりました。色合いはかなり異なりますが、コピーの影響でしょうか?

            目呂二関係者所蔵品

着物 白地に梅柄
半襟 黄緑に蝶柄
羽織 えび茶に四つ葉のクローバ
襦袢 格子に絞りの斑点
   


2 新たに見つかった芸者招き
 情報提供者のUさんが本格的な調査の前に所蔵品を調べたところ、新たに2体の芸者招きが発見されました。残念ながらそれらは破損していて修理をしようとしたのか布でぐるぐる巻かれた状態になっていたとのことです。どちらも自性院タイプです。

清原ソロさん所蔵品1

 一体は右手部分が破損しています。底には「猫珍奇林作」と猫の足形が墨書きしてあります。かなり汚れ、彩色の剥離も進んでいますので、どかかに飾られていたものが修理のために保管されていたのかもしれません。顔は丸顔で、右手は床まで届き、左手は耳の上端まで達していない自性院タイプです。口元に紅が入っています。状態がよいときは気が付かなかったのですが、眼孔部分がひじょうにリアルにつくられています。郷土玩具制作者にはない、彫刻家ならではの造りになっています。

   
   猫珍奇林作の銘
   
  胸元部分      裾部分



清原ソロさん所蔵品2

 もう一体も顔は丸顔で、右手は床に届き、左手は耳の上端の高さまで達していない自性院タイプです。この画像は照明の関係で眼孔部分の微妙な凹凸がひじょうによくわかります。口元の彩色が所蔵品1とは異なります。こちらも左手が破損していますが、破損した部分は残っています。破損部分から内部が見え、手押しで型抜きした様子がわかります。

   
 自性院所蔵と同じ柄    手押しであることがわかる
  
  胸元部分     裾部分


3 芸者招き 比較表    (構造社展出品は図録コピーより、自性院所蔵品はモノクロ写真から)

形態
  顔 左手の位置 右手の先端の位置 耳の先端 口の形状
目呂二関係者所蔵品 丸顔 耳の位置 ひざ やや丸  閉
清原ソロさん所蔵品1 丸顔 耳より下 やや鋭  閉
清原ソロさん所蔵品2 丸顔 耳より下 やや鋭  閉
清原ソロさん所蔵品
(構造社展出展)
丸顔 耳の位置 ひざ やや鋭  閉
痴娯の家所蔵品 やや丸顔 耳より上 やや鋭  開
骨董市出品 やや丸顔 耳より上 やや鋭  開
自性院所蔵 丸顔 耳より下 やや鋭  閉

色と柄
着物の色と柄 羽織の色と柄 半襟の色と柄 襦袢 その他
目呂二関係者所蔵品 白地に紅白梅柄 えび茶に四つ葉のクローバ 黄緑に蝶柄 赤地に格子に斑点の絞り 帯揚げ:赤地に
白の斑点の絞り
清原ソロさん所蔵品1 茶? 色柄共に不明 黄色地に柄不明 不明 帯揚げ:赤地に
白の斑点の絞り
清原ソロさん所蔵品2 青紫地に紅白梅 白地にモミジと波紋? 黄色地に蝶 赤地に格子に斑点の絞り 帯揚げ:赤地に
白の斑点の絞り
清原ソロさん所蔵品
(構造社展出展)
青地に菊? 黒地に淡い模様(柄不明) 黄色地に蝶 赤地に白い斑点の絞り 帯揚げ:桃色地に
赤と白の斑点の絞り
痴娯の家所蔵品 淡い緑地に菊? 黒j地に柄不明 桃色に柄不明 赤地に格子 斑点は不明 帯揚げ:赤に白の斑点
帯留め:鈴
骨董市出品 緑系統に柄不明 黒地あるいは濃紺に柄不明 緑? 赤地 帯揚げ:赤地に斑点
帯留め:鈴
自性院所蔵 茶系地に紅白梅柄 白地にモミジと波紋 黄色地に蝶 赤地に格子に斑点の絞り 帯揚げ:赤地に
白の斑点の絞り

                                                        自性院所蔵品は2009年5月6日 加筆修正

 ところでここで「自性院タイプ」と「痴娯の家タイプ」と称していますが、これはあくまでも筆者が便宜的に使っている名称です。比較のために「芸者招きの謎」から再録しておきます。

4 再録  自性院タイプと痴娯の家タイプ
自性院タイプの芸者招き
 『招き猫の文化誌』(宮崎良子 1988 青弓社)より許可を得て掲載

 上の3体の芸者招きはすべて『招き猫の文化誌』(宮崎良子 1988 青弓社)に掲載されている芸者招きです。すべて福々しい顔をしています。着物や襦袢の柄はすべて異なります。80年代の量産品をのぞけば、この柄の書き込みに作者のセンスが現れるわけで、おそらくレプリカも含め古い作品は一体一体着物等の柄が異なることが予想されます。それだけに真贋を見極めるのもひじょうに難しいものと思われます。なお、白金台”まねきねこ”とは白金台の明治学院前にあった、招き猫をはじめとするネコ関係の商品を売っていた店で今はありません。

自性院タイプの芸者招き 『招き猫の文化誌』(宮崎良子 1988 青弓社)より許可を得て掲載

 
「目呂二の芸者招き」
  
某彫刻家によって復元された芸者招き   80年代市販の芸者招き

 上の3体の芸者招きはすべて『招き猫の文化誌』(宮崎良子 1988 青弓社)に掲載されている芸者招きです。すべて福々しい顔をしています。着物や襦袢の柄はすべて異なります。80年代の量産品をのぞけば、この柄の書き込みに作者のセンスが現れるわけで、おそらくレプリカも含め古い作品は一体一体着物等の柄が異なることが予想されます。それだけに真贋を見極めるのもひじょうに難しいものと思われます。
 なお、白金台”まねきねこ”とは白金台の明治学院前にあった、招き猫をはじめとするネコ関係の商品を売っていた店で今はありません。

「痴娯の家」タイプの芸者招き

   
「痴娯の家」所蔵の芸者招き   新たに追加しました   2001年5月の骨董市に出ていた芸者招き

 上の写真の左は「痴娯の家」所蔵の芸者招きです。現在見られる芸者招きに比べ、先に書いたように少し細身の顔をしています。それに手が耳の上まで上がっていることと口が半開き状態になっていることなど明らかに異なる型から作られたものです。右の骨董市に出ていた芸者招きは袖口から出ている襦袢に模様の書き込みがないことを除けばひじょうに似ています。着物の裾部分の彩色は剥離が激しいのですが、模様は
似ているようです。帯の部分などはむしろこちらの方が細かく書き込まれているようです。
      (ひじょうに細かく描き込まれている)

 どうでしょうか、これを見て本物だと思いますか?

追記(2002年7月8日)
 「痴娯の家」の芸者招きの写真がもう1枚出てきました(上中央の写真)。撮影は同じ時ですが、芸者招きの右側が写っているものです。羽織のしわや凹凸の巧みさに感心します。縮小した写真ではわかりづらいのですが、羽織の袂から見えている着物などの描写もなかなかのものです。今回この写真を見て初めて気が付いたのですが、右耳の後ろの毛がが茶色なので芸者招きは三毛猫であることがわかります。また耳の付け根の外側にある袋状のしわなど猫好きでなければ気が付かないような細かい描写も見られます。少なくとも今までにこの部分を再現した招き猫は見たことがありません。骨董市の芸者招きは正面からの写真しかありませんので、このような点の比較ができないのが残念です。

 絵が先か、猫が先かはわかりませんが、猫のしなやかな動きと芸者の色気をあわせて芸者招きが誕生したことは容易に想像できます。


 同じ和服の猫でも羽織を着ることによって、ちょっと年上の落ち着いた感じの猫になってきます。

 しかし、芸者招きとはだれが付けた名称なのでしょうか。Uさんによれば、すの子さんが目呂二が活躍した当時の宣伝文、新聞・雑誌の記事等をファイルしておいたものが見つかり、内容を確認しているそうです。それによれば、「目呂二人形」「MONEY KEY猫」の名は当時からあったようですが、なぜか芸者招きに関する資料が見つかっていないそうです。目呂二の年譜(おそらく「目呂二抄」がもっとも詳しい)を見ても、「MONEY-KEY猫」や「趣味の猫百種」の頒布に関しては記載されていますが、芸者招きの頒布に関してはありません。清原ソロさんへのヒアリングと所蔵品の本格的な調査の結果が待たれます。
 有名な割に実態がわからない不思議な「芸者招き」。遠い彼方から手招きして呼んでいるような気がしてきました。


加筆(2006年6月8日)

5 芸者招きは芸者だったのか?           

         
      これも目呂二人形のひとつだったのか       目呂二人形

 この問題は私がUさんに「芸者招き」の名称の由来などについて伺ったことが発端となっています。その後、Uさんは残されている資料を見たり清原ソロさんに聞き取りをおこなったりしましたが「芸者招き」という呼称は出てきませんでした。
 さらに目呂二の「猫娘」の絵がたくさん出てくることにより芸者というより、むしろ若い猫娘のイメージが強まってきました。そのような資料を基に最近資料提供者のUさんからおもしろい意見を伺いました。それは次のようなものです。

 あれは果たしてすべて“芸者”だったのであろうか。
 ・先行して製作された“目呂二人形”から、目呂二の猫好きゆえに、モデルが次第に人間の娘から“猫娘”に変化していったものではないか。 ・目呂二にとっては、今日芸者招きと呼ばれている猫人形も“目呂二人形”の一シリーズという認識であったのではないか。

理由として
 はつらつと擬人化された猫の原画、目呂二人形の彩色パターンが芸者招きのそれと酷似している事
 キャッチーなコピーや名前をつけるのが大好きな目呂二が、芸者招きについては特別な呼称等を残していない(現段階の調査では)など


 私も今まであまりにも「芸者招き」という呼称が一般化していたため疑問にも思いませんでしたが、このたびいろいろな資料を見せていただき、また今回Uさんの考えを聞くにおよび、私もだんだんUさんの考えに近くなってきました。
 これまでは「芸者」のイメージで見てきたのでそう思いこんでいましたが、目呂二関係者から提供された状態のいい作品は若い娘風で芸者の雰囲気に似合いません。もちろん当時は自性院の猫の開眼法要(後述)や以前から調査している加州猫寺の畜霊慰霊碑法要などを見てもわかるように芸者衆あるいは花柳界と寺との間には関係がかなりあったので、目呂二もまったく意識しなかったわけではないだろう。
 しかし、あの三毛柄の振り袖を着て、はにかみのポーズの猫娘を見ていると、目呂二人形の娘達につながってくるように思えてなりません。

              ついに姿を現した芸者招き

 ついに芸者招きが姿を現し始めました。目呂二関係者のUさんや博物館の学芸員の調査により、芸者招きに関する資料が出てきました。
 結論から言うと「縁福猫」が正式な名称です。ただこれまで芸者招きで世間には通用してきたので「縁福猫(いわゆる芸者招き)」という名称を今後使っていきたいと思います。


      芸者招きは「縁福猫」だった

縁福猫の誕生
 昭和8年10月6日、葛ヶ谷猫寺(自性院)に猫の像を奉納し、猫供養を営んだところ、ある夜三毛の美しい姿の猫が夢枕に立ち、お礼を言った。そして「自分の姿を笑い顔の招き猫をつくりなさい。そうすれば開運縁福の猫として日ごろの願いに報います」と告げた。
 おもしろい夢だと七日七夜かけて、驚く程夢とそっくりの招き猫を作り上げた。この猫を飾って、ひとり悦に入っていると、友人は「譲れ」だの、「このようなめずらしくかわいい猫をひとりで楽しむなんて」、ということで50個限定で制作することとなった。(猫珍奇林猫報 号外)


 これが縁福猫(いわゆる芸者招き)の誕生のいきさつのようです。つまりは自性院への猫の奉納がきっかけとなったようです。夢の猫のお告げはよくある話で、恩になった猫が夢や直接主人に話しかけ、「自分の姿をつくって売りなさい」と告げ、恩を返すもので今戸の招き猫の始まりのいわれなどいろいろなところに残っています。
 これはいろいろと猫の話に詳しい、目呂二流の洒落とみておいた方がよいかも知れません。
 パンフレットの貼り付けられている写真を見るとこれは明らかに「痴娯の家」タイプです。つまりこれが縁福猫(いわゆる芸者招き)のオリジナルであると考えられます。
 パンフレットを見ると賛助者として
   黒猫荘(黒猫玩具蒐集家 東郷彪:東郷平八郎子息)
   水谷八重子(黒猫玩具蒐集家 女優の初代水谷八重子)
   招福荘(猫玩具蒐集家 木子七郎:建築家)
   成P芳子(愛猫家撫猫庵主 目呂二の親族)
   大澤永潤(猫寺自性院主 自性院住職)
 の5名の氏名が上がっています。
 定め書きを見ると、50体限定頒布となっており、高さは8寸5分(25.5cm)、価格(頒布会費5円)、葉書で申し込み代金引換で販売したようです。
 パンフレットは実に手が込んでいます。小判型のパンフレット(78mm×120mm)が2枚に、申し込みの葉書と封筒(105mm×160mm)があります。小判型のパンフレットの一枚は表に縁福猫の写真が貼ってあり、口上と協賛者である先の5名の氏名が書かれています。裏面はさだめ書きになっています。もう一枚の小判型パンフレットは表が大判を摸した造りで中央に縁福猫の文字、裏面は縁文句(由来)が書かれています。返信用の葉書は手書き彩色で木箱のように描かれ、中央に「加通応文信」(かつおぶし)、熨斗はよく見ると「申込」となっています。表の宛先は「東京市豊島区長崎東町 猫珍奇林 河村すの子行」となっています。長崎東町は豊島区が成立した昭和7年10月1日から使われた町名で昭和10年11月1日の町名改正までの短期間使われました。
 封筒の表は千両箱のデザインで「釣千両」の文字が書かれています。これはそのまま読めばよいのでしょうか。それとも何かの言葉遊びなのでしょうか。千両箱の金具はよく見ると鈴になっています。封筒裏面の右下に(給料袋)と印刷されているので給料袋用の封筒を転用したのかもしれません。

  縁福猫購入用パンフレット
               
        パンフレット1表と葉書裏       パンフレット1裏と葉書表
              
        パンフレット2表と封筒表      パンフレット2裏と封筒裏
 これ以外に「猫珍奇林猫報 号外」と称するパンフレットあるいは広告があります。これには上記のパンフレットの内容がすべて書かれています。申し込みの葉書はかなり残されているとのことで、申し込み書の「加通応文信」に対し、注文書「勝魚武士」などと言葉遊びで返して遊んでいる様子もうかがえます。
 痴娯の家の岩下庄司(祥児)氏は縁福猫以前の趣味の猫百種も入手しているので、当然のことながらパンフレットも送られているはずです。したがって痴娯の家で保管されている縁福猫はこの時購入したものであると考えるのが自然です。

             
      猫珍奇林 猫報号外 (広告)          申し込み葉書

 なお、以下Uさんによれば、
 残念ながら縁福猫の実物は出てこなかったそうです。また、具体的な理由は示されていませんでしたが、協賛の5名の方々は協賛というより一種の広告塔を依頼したようであり、パンフレット・申込書の体裁や販売キャンペーンはすの子夫人が積極的にプロデュースしていたように見受けられるとのことでした。
 申込書の「加通応文信」もかなり残されていて、数量のわかるものだけでも100体近くの注文があったそうです。ただし、申し込みのあったものすべてに対応したのか、限定数50体に限ったのかは不明とのことです。ただUさんは申込書に切々と訴えるような文面も多く、目呂二の人柄を考えると相当数対応したのではないかと推測しています。またいろいろと黒猫や家紋入り、貯金玉などオリジナルの注文をする申込者もいたようですが、芸術家としてそれはなかったのではないか?と推測しています。


                       構造社展に出品された縁福猫
 
                       画像をクリックすると少し大きめの画像になります

        
         底には「猫珍奇林」とねこの足跡



7 今後の問題
 芸者招きは「縁福猫」として昭和8年に頒布されたことがわかりました。しかも「痴娯の家タイプ」です。このタイプは痴娯の家以外では見たことがありません。現在多く残されているのは「自性院タイプ」です。はたしてこの自性院タイプはどのようにして生まれたのでしょうか。

 Uさんは夢枕に立った三毛猫こそ目呂二の猫絵の中の「猫娘」ではないかと考えています。猫娘が描かれた時期ははっきりしませんが、私もその意見には賛成です。
 また、頒布会(痴娯の家タイプ)→自性院タイプ→構造社展出品のタイプの順に制作されたのではないかとも予想しています。その理由としては移り変わっていくデフォルメ感を挙げています。

 以前に私も書いたことがあると思いますが、「痴娯の家」タイプは顔に猫の雰囲気を多く残しています。しかし自性院タイプになると見る角度によって異なりますが、丸顔のかわいらしさや妖麗さを感じる招き猫へと進化しています。特に横顔はより人間に近いものとなっています。

 Uさんもこのあたりを「”夢枕の猫娘”の面影も薄れ、より福々しく、招き猫らしくなったような気がします。注文をこなすために簡略化を模索していたこともあるのでしょうか」と結んでいます。
 ただ目呂二の猫絵の中には福々しい丸顔の猫も登場しており、清原ソロさんの記憶にも「縁福猫(いわゆる芸者招き)」はパターンは2種類以上あったようであることと、頒布用と本人の趣味で制作していたとのことですので最初から自性院タイプも存在したのかも知れません。なぜ目呂二関係者のお宅にも痴娯の家タイプが残っておらず、自性院タイプが残っているのか。複数購入したはずの自性院でもなぜ痴娯の家タイプが残っておらず、自性院タイプが残っているのか(戦災で残ったものなのか、それとも後に目呂二から贈られたものなのか)など今後複数ある縁福猫(いわゆる芸者招き)の解明の鍵となるかも知れません。

 


     「ねこれくと」内の関連ページ
          「芸者招きの謎」   「芸者招きに謎 その後」
          =^・^=自性院へ福豆をもらいに行く    =^・^=今年も自性院節分会へ行く 

  ※最近、自性院所蔵の芸者招きのうち、「某作家作レプリカ」がカラー画像で見ることができることを知りました。
    最近の自性院の節分会で公開したようです。常時、猫地蔵堂にあるのか節分会だけなのかはわかりません。
    いずれにしろ、来年の節分会では見てこようと思っています。



8 追加資料 縁福猫の賛助者書簡と申込書 2008年5月31日
 これら一連の資料はUさんからいただいた2年前にすでに手元にあったのですが、書簡や申込書といった個人データを含んだ資料であるため、一部にぼかしを入れたり未発表にしていました。しかし、その後調べてみた限り自性院の大澤永潤住職(先代)以外は転居しているようですし、また故人となられているようなので、資料的価値から「賛助者」に限って手持ちの資料を公開することにしました。またこれらが元になり、ひとつでも縁福猫に関して事実がわかればと思っています。、

         
   黒猫玩具蒐集家
   東郷彪氏の封筒
  黒猫玩具蒐集家
  初代水谷八重子氏の書簡
   愛猫家撫猫庵主
   成P芳子氏の書簡  
       
                           招き猫蒐集家 (招福荘)
                           木子七郎氏書簡
                 
     木子七郎の申し込み書          成P芳子氏の申込書     大澤永潤氏の申込書

 以前にも書いたように、最近はすっかり猫好きで有名な二代目水谷八重子氏は最近飼い始めるまでは猫とは縁のない生活だったことをインタビューで答えています。手元にあるこれらの書簡を見ると初代水谷八重子氏の葉書だけ他とは雰囲気が異なり、目呂二が何かを依頼してそれを承諾したようにも読み取れます。もっとも広告塔としての依頼なら、12月6日の消印は遅すぎ、もう少し早い時期に依頼しているはずです。他に資料を持っていないのでこれ以上のことはわかりませんが、興味をそそられる書簡です。

 賛助者の中で唯一「成P芳子」なる人物だけが、現在も正体がわかりません。最近は古い地図や航空写真がインターネット上で閲覧できるようになってきました。上の申込書にある住所も特定できますので、もし現在関係者が住んでいれば何か情報を得ることができるかもしれません。特に大きな銀行関係者などであればより可能性が広がります。目的地は「東京市小石川区大塚坂下町122」です。こちらのレポートは目呂二ミュージアムの「目呂二雑記」にアップしました。


9 追記 (2008年6月9日)
賛助者の東郷彪氏(1885〜1969)と水谷八重子氏(1905〜1979)について
 東郷彪氏の黒猫コレクションに関しては目呂二も一目置いていたようです。そのコレクションに関しては私邸にコレクションルームをつくり、自ら「黒猫荘」と呼んでいたそうです。その後、旧邸は母校である現在の東京農業大学の厚木キャンパスに移築され、現在も「黒猫荘」と呼ばれているということです。調べてみると「黒猫荘」は学会開催時には会場のひとつとして使われたりと、現在でも利用されているようです。残念ながら大学のキャンパスマップではどの位置にあるのか確認できませんでした。
 ところで移築されたということは戦災に遭わずに残ったということでしょうか。そうなるとコレクションはどうなったのでしょう。東郷彪氏がなくなったのは1969年ですから、それほど昔ではありません。しかし、どこかに展示されているという話もこれまで聞いたことはありません。目呂二に詳しい山田賢二氏の「目呂二哀愁」(山田賢二 緑の笛豆本 1991)にもそのコレクションの行方は杳(よう)として知れないとあります。

 東郷彪氏は黒猫コレクターとして有名であったのは多くの知るところのようですが、もう一つ初代水谷八重子氏の関わりも気になります。雑誌「猫びより」(2005 No.23)の二代目水谷八重子氏(1939〜)のインタビューによれば、「先代は大の犬好きで現在飼い始めたトラがやってくるまで猫とはあまり縁のない生活だった」と答えています。そのインタビューの中で初代水谷八重子と共演した人間国宝の花柳章太郎(1894〜1965)は大の猫好きだったことを証言していますが、この共演も戦後のことで縁福猫の年代とは一致しません。はたして先代水谷八重子は猫好きだったのでしょうか。
 縁福猫のパンフレットでは東郷彪氏と同じ「黒猫蒐集家」の肩書きで賛助者として名を連ねています。これを裏付けるかのように、先の「目呂二哀愁」(山田賢二 緑の笛豆本 1991)の東郷彪氏の黒猫に関しての記述の中に「久米の黒猫(久米人形は縁起物で白しかないが、黒猫は日本中に二匹あった。他の一匹はやはり黒猫蒐集家の女優水谷八重子嬢ということである)」、・・・とあります。ここでも黒猫との関係が記されています。はたしてこの情報源が何であるかはわかりません。しかし複数の記載から初代水谷八重子と(黒)猫は何らかの縁があったと考える方が合理的でしょう。けれど謎は深まるばかりです。

    ※久米土人形 (昭和初期には久米にも何軒か土人形制作者がいたようです)




10 縁福猫と初代水谷八重子 その後 (2009年5月6日)
 先の初代水谷八重子と縁福猫の関係ですが、二代目水谷八重子のブログに書き込みをしたところ次のような答えが返ってきました。

Commented by ororo at 2009-05-03 10:57
 遅ればせながら、春の叙勲おめでとうございます。トラちゃんその後いかがですか?
 ところで今ではすっかり「水谷八重子=猫好き」が定着してしまいましたが、以前から気になっていることがあります。コンタクトをとる方法がなかったのでこちらのブログから失礼します。
 私も猫好きで、特に招き猫について調べております。その中で戦前に活躍した彫刻家河村目呂二の作で有名な縁福猫(いわゆる芸者招き)の頒布賛助者として初代水谷八重子さんが名前を連ねています。しかし、雑誌インタビューではトラちゃんがやってくるまでは小さいころからあまり猫とは縁のない生活、初代も犬好きとあります。あれれ???・・・。当時のパンフレットでは初代は黒猫玩具蒐集家となっています。別の書籍でもめずらしい郷土玩具の黒猫の持ち主の記載があります。この「猫好き・初代水谷八重子」に関して何かお心当たりはないでしょうか。当時のパンフレットなどは当HP「ねこれくと」の目呂二ミュージアム「縁福猫/芸者招き」で見ることができます。初日が近いということですので、お時間のあるときによろしかったらご覧下さい。 
Commented by funny-girly at 2009-05-03 23:46
ororo さま
古い演舞場の楽屋に住み着いていたガチャミケが、楽屋に入ってきたとき「私は猫ちゃん嫌いだから」と云いました。それ以来、花柳章太郎先生の可愛がっていたそのガチャミケは決して母がいる間は楽屋に来ませんでした。母は私の飼っちゃあ放りっぱなしのボクサーを甘やかして可愛がり、夜は身体中を自分で「フキフキ」していました。猫は、、、嫌いでしたよ。ただ何方か名のある方が、大砲の弾で彫ったとか云う、猫の指輪は大事にしていました。小指にしか入らないので、仕舞いっぱなしになっていますが、、、。

 この楽屋話は戦後のことです。縁福猫(いわゆる芸者招き)の頒布は1933年(昭和8年)ですから、二代目水谷八重子の生まれる前です。猫好きだったのが何かの理由で猫嫌いになることは有り得ますが、ここまで大きく趣味・嗜好が変わるでしょうか。やはり広告塔として名前を使っただけなのでしょうか?でも目呂二だったら猫好きの賛同者をいくらでも捜せたはずで、宣伝のためだけにあえて「猫好き」にしたいうのも意に反して不自然な感じを否めません。そして先の「目呂二哀愁」(山田賢二 緑の笛豆本 1991)の東郷彪氏の黒猫に関しての記述の「久米の黒猫(久米人形は縁起物で白しかないが、黒猫は日本中に二匹あった。他の一匹はやはり黒猫蒐集家の女優水谷八重子嬢ということである)」の部分が気にかかります。本当に初代水谷八重子は猫が好きではなかったのでしょうか?謎は深まります。
               (2009年5月6日)



11 縁福猫自性院タイプについての問題
 自性院の縁福猫(いわゆる芸者招き)については招き猫の文化誌の(宮崎良子)のモノクロ写真しか、手元にないと思って書いていたのですが、その後「猫づくし」(誠文堂新光社 1979)に『河村目呂二さんと猫 (猫地蔵堂 大澤光涌』」という文と1ページにわたり縁福猫のカラー写真が掲載されていることに気付きました。しかし「ねこれくと」の記載は修正されないまま今まで来てしまいました。そこでこの際ですのでわかった事実を手直ししておきたいと思います。
 カラー写真ですので、色がすべてわかります。着物地は茶系統の表現しづらい色合いをしています。詳しくわからなかった部分に修正を加えると清原ソロさんの2番目の縁福猫(いわゆる芸者招き)に似ています。着物や羽織の柄もほぼ同じです。どうも自性院のものは紫系統の色が退色したものではないかと思われます。それ以外の色はしっかり残っています。着物の色以外は特徴が一致し、表情や造りを考え合わせると、この二体は同一のものと思われます。

 もう一つ「猫づくし」に気になることが書いてあります。引用すると
 『目呂二さんと猫について忘れられないものは、目呂二さんが世界中より収集された鋳物、焼き物、紙、木、布等あらゆる手芸の猫芸術品三千余点にのぼる逸品を惜しげもなく、そっくり当寺に奉納されたことです。その他絵画、自作の六猫息災猫手拭、浴衣等、一切が戦災のため焼失してしまったのです。
 現在、寺に目呂二さんの作品として残っておりますものは、終戦後のある年に作られた百体の招福猫の一体だけです。これまた優秀な作品で、一度ご覧になられた方は誰でも生涯忘れることが出来ない、誠に魅力に富んだ逸品です。』とある。
 戦災で鍋蓋に彫られた猫と古い絵馬(「猫づくし」に掲載されている写真のものか?)以外残っていないという話は聞いたことがある。しかし、縁福猫(いわゆる芸者招き)と聞くだけですでに戦前のものという先入観が先立ってしまった。この話に間違いがないとすると縁福猫(いわゆる芸者招き)は戦後も制作されたことになります。

 あらためて自性院に問い合わせる必要がありそうです。清原ソロさんの記憶も重要な証言になってきます。このあたりの事情は詳細がわかりましたらまた更新する予定です。
                (2009年5月6日)

     問題解決?
     戦後制作された縁福猫(いわゆる芸者招き)について


12 岩下コレクションに見る縁福猫「痴娯の家タイプ」
 新潟県柏崎市の小高い丘の上に建てられた『痴娯の家』(現在は柏崎市に寄贈移管)の創設者でもある岩下鼎氏のご厚意により、目呂二関係の画像の使用許可をいただきました。これまで手元にあった画像はデジカメ初期(38万画素時代)に伊豆高原で開催された招き猫展で入手したものと伊豆長岡に当時あった「痴娯の家」(平成10年閉館)のパンフレット表紙のものだけでいささか鮮明さに欠いていました。今回その貴重な縁福猫(痴娯の家タイプ)の正面画像を掲載できることになりました。この場を借りて画像使用をご承諾いただいた岩下鼎氏にお礼申し上げます。

     痴娯の家に関してはこちら 柏崎コレクションビレッジ

 なお、このコレクションは国内外の骨董蒐集家である岩下鼎氏の先代で無類の郷土玩具コレクターであった岩下祥児(岩下庄司)氏が頒布当時、目呂二夫妻から直接入手したという点でも価値があります。

 残念ながら、百猫は一括して撮影した画像でそれほどサイズも大きなものではないため小さな作品は不鮮明なところもあります。しかしこれだけ揃っているコレクションは他では見られないため、全体像を把握するための貴重な資料になると思われます。それに底には岩下祥児が書き込まれたと思われる産地が記入されているので、分類の上でもひじょうに参考になります。

      
           岩下鼎氏のコレクション
      
                  今のところ唯一確認されている痴娯の家タイプ

 この画像をあらためて見ると帯留めは本物の鈴が付けてあることがわかります。


               岩下コレクションに見る趣味の猫百種


13 縁福猫(いわゆる芸者招き)についての新事実
 すでに報告にも書きましたが、2009年秋の目呂二猫の展示会の展示物から縁福猫に関しての新事実がわかってきました。
 結論から言うと縁福猫の頒布は少なくとも2回あったということになる。

 第1回目の追分での展示会報告から採録すると次のようになる。

その1 やはり縁福猫(いわゆる芸者招き)は戦後にも頒布されていた。
 自性院にある芸者招きは『終戦後のある時期に作られた百体の招福猫の一体・・・』という記事(「猫づくし」 誠文堂新光社 1979) がありこの戦後という部分が不明でした。しかし昭和25年の料飲漫画新聞に「福招き猫」として頒布の紹介がされている。申込先は料飲漫画新聞社となっている。さらに注目すべきは高さ六寸1000円、八寸2000円、二尺3500円とある。八寸は一般的な大きさで自性院の猫もこの大きさと思われる。六寸は今回の会場に第三期として置いてあった猫ではないだろうか。会場にいた板東・荒川夫妻と話題になったのは二尺物。はたしてこれは存在したのだろうか?二尺といえば現在作られている最大級の旭土人形の大猫に匹敵します。注文制作されたにしても型など制作できる環境がなければ案内はしないはずです。それでは型はどうなったのだろうか?疑問が次々浮かんできます。

 記事が掲載された「料飲漫画新聞」(料飲漫画新聞社)は調べてみたが残念ながら詳細はわからなかった。

 新聞の頒布広告には次のようにある。

 私は福招きであります。この度、不景気風にあおられている世間さまの苦状みるに忍びず、本誌を借りまして○○、私を可愛がって下さる方は
  高サ 二尺・・・・・三千五百円
      八寸・・・・・二  千  円
      六寸・・・・・一  千  円   の大枚を投じて下さい。
    (ご希望の方はハガキまたは電話でお知らせ下さればいつでもお嫁に参ります)
      申込先 料飲漫画新聞社中央区○町1−7
      電話   ○○

 採録にもあるように二尺という大猫はいったいどのようなものであったのだろうか。現在制作されている招き猫ではおそらく三河の旭土人形がいちばん大きいがそれに匹敵する大きさであったはずだ。もし暗がりで目の前にあったとしたら擬人化されているだけにかなり不気味であったに違いない。

 再度画像で縁福猫(いわゆる芸者招き)を対比して見ると次のようになる。

  @   A   B
@は痴娯の家タイプ
Aは新聞掲載の戦後頒布品
BとCは自性院タイプ
DはBCと同じサイズ
Eは他より少し小型
  C   D   E

 @は岩下鼎氏所蔵で購入の申し込み記録も残っているので第1回目の頒布のものとみて間違いない。痴娯の家タイプの標準と位置づけたものである。・・・いわゆる痴娯の家タイプ
 Aは昭和25年頒布の新聞広告でBCはこのときの8寸に当たると思われる。明らかに戦前のものとは異なるタイプである。自性院のものはこれに当たる。・・・いわゆる自性院タイプ
 問題はDでサイズはBCと同じである。しかし表情は異なる。他とは異なる型で制作されている。はたして同世代のものかは不明。
 Eは正確には採寸していないが戦後の6寸に一致すると思われる。そうなると表情や所作の似たDも戦後の作品である可能性が高くなる。

 十分な証拠はないが戦前に頒布された痴娯の家タイプと戦後依頼されて制作された型違いでサイズの異なる自性院タイプの2回の時期に縁福猫(戦後は「福招き猫」という名称を使用)と見るのが自然ではないだろうか。

 ひとつのことがわかるとまた新たな問題が出てくる。
 今後の課題として
  ・戦後八寸の同じサイズで異なる型のものが制作されたのか(上のA〜CとD)
  ・Eははたして戦後頒布の六寸にあたるのか
  ・これらはどこでどのようにして制作されたのか
  ・はたして二尺の大猫は制作されたのか

      などがあげられる。
 ジャズ招きの件もあるように、まだまだ埋もれた書簡やスクラップなどの資料が多数あると思われる。今後の精査が望まれる。
 戦後制作されたものなら、もう少し現物が出てきてもよさそうである。戦後ならまだ関係者が存命であることも期待でき、今後情報が集まってくることも期待できる。

飛び入りの縁福猫(いわゆる芸者招き)について
 もう一つ展示会に飛び入りで参加した縁福猫(いわゆる芸者招き)。あまりにもきれい。しかし出所の由来が本物を思わせる。
 縁福猫の外観はこれまでにも比較してきたが、底の部分にふれられることはなかった。

                  
                       はたしてこの縁福猫は?

 今回飛び入りの痴娯の家タイプは底書きがない。しかも花巻人形のように紙が貼ってある。しかし戦後の自性院タイプおよびそれと同等と考えられる縁福猫は底が閉じており、製法が明らかに異なる。また「猫珍奇林」とねこの足跡がある。現在確認されている痴娯の家タイプは岩崎氏所蔵のものだけであるが、底がどのようになっているのか聞き取りをする必要が出てきた。

    どちらの底にも「猫珍奇林」とねこの足跡




16 縁福猫(いわゆる芸者招き)の貯金玉
 突然「我が家の招き猫」と題するメールがPINKYさんという方から届きました。送られてきた画像を見ると縁福猫(いわゆる芸者招き)の戦後タイプです。頭のうしろに硬貨の投入口とおぼしき穴が開けられており、一部に補色がなされています。しかしこれは明らかに目呂二が戦後に頒布した招き猫に間違いありません。サイズは画像のスケールから6寸のものであることがわかります。
 頭の穴が残念だなと思いながら、

  縁福猫(いわゆる芸者招き)の画像ありがとうございました。参考資料とさせていただきます。戦後の頒布品ですね。頭に開けられた穴は惜しいです。貯金玉にでも加工しようとしたあとでしょうか。今となってはどの程度製作されたか資料が残っておりませんので不明です。しかし戦前の趣味人達とのネットワークを失い、軽井沢に居を構えていたことからあまり製作数は多くなかったのではないかと思われます。貴重な品ですので大切にして下さい。
 また情報がありましたらよろしくお願いいたします。
                                   ORORO

 とメールを返信したところ、再度メールがあり、なんと頭の投入口は最初から開いていたのだそうです。またそのいきさつも書いてありました。
 内容の要点をまとめると次のようになります。

  PINKYさんの家の猫は最初から貯金玉だそうです。
 入手経緯は昔PINKYさんの母親が親戚の方から頂いたものだそうです。
 その時の話では、硬貨がぎりぎり入る穴があり、その親戚の方の子供がお金を入れてしまい、入れたお金がどうやっても取り出せなくなり、割るのももったいないので穴を削って広げて出したそうです。
 その後、お母様が大切にしていましたが、タンスの上などに置きっぱなしになっており、彩色もひどく傷んだ状態になっていたようです。そこで20年位前にPINKYさんの兄妹の方がリペイントしたのが今回の縁福猫だということです。

  着色などの塗装は参考にしないで下さいとのコメントが付けられていました。

 つまり戦後の縁福猫には貯金玉が存在したということです。これは初めての報告です。目呂二の関係者を含めこれまでみつかっている縁福猫はすべて置物としての土人形であり、貯金玉というのは報告されていませんでした。
 香炉をはじめいろいろな猫作品を制作した目呂二にとって投入口を開けて貯金玉にすることなど訳なくできたでしょう。依頼者の注文に応じて貯金玉にしたり、あるいは最初から貯金玉タイプも存在したのかもしれません。大きさとしてもタンスの上にちょこんと座らせるには6寸タイプはちょうどよかったのかもしれません。
 ただむかしの貯金玉の宿命で取り出し口がありません。貯金玉は割って中の硬貨を取り出されそれとともに命を終えるのでした。きっと目呂二の貯金玉タイプの猫にもそのようにして命を落とした猫たちがいるのでしょう。
 しかし昭和20年代の半ば6寸サイズの1000円というのはかなりの高額です。最初の持ち主であるPINKYさんの親戚の方は大切な猫を割らずに投入口を広げるというぎりぎりの選択をしたのでしょう。底部の穴も少し大きくなっています。この部分を最初に削って硬貨を出そうとしたのかもしれません。どちらにしろ大切にされたからこそ60年以上たった現在に姿を残しているのでしょう。
 かなり大きく剥離したあともありますが、ぼかしも入れて丁寧にリペイントされているため、ちょっと画像で見ただけではどこを修理したかよくわかりません。
 ぜひこれからもこの招き猫、長生きしてほしいものです。

  この画面で見る限り羽織の模様はわからない。 
はっきりリペイントされていることがわかるところもあるが、
オリジナル画像を見ても
どの部分を再度塗り直したのかよくわからない。
羽織の黒の部分は鮮やかなので
かなり修理されている可能性がある。
右耳部分は大きく胡粉が剥離し、修理したことがよくわかる。
着物や帯の部分はオリジナルのままか?

(あくまでも画像を見た感想ですので間違いはご容赦を)
 
 正面   後姿 
     
  左側   右側
     
 約6寸  
   
   羽織の一部はリペイントされている  手の甲はリペイントされている 
     
 羽織のうしろもリペイントされているように見える?(不明)  広げられた硬貨投入口  穴は少し削られて大きくなっているようだ  銘はない

 この縁福猫の貯金玉、ぜひオリジナルのものをみたいものです。どこかに古い穴なし5円玉でも入った貯金玉がひっそりと残っていないでしょうか。
 またまた新たな難題が出てきてしまいました。



17 初代縁福猫(痴娯の家タイプ)の底の構造(編集中)
  昭和初期に頒布された初代縁福猫は現在確認されている個体自体が少ない。私の知る限り連絡が取れる方は2人しかいなかった。今回これまでにもいろいろと招き猫情報をいただいていたNさんから縁あって入手した初代縁福猫の画像をいただいた。『ねこれくと』に掲載可能ということですので比較検討のためにも画像を公表したいと思います。Nさんにはこの場をお借りして感謝を申し上げます。
 出会いと入手した経緯などを記した詳細な文もいただいているのですが、個人情報が多いため差し障りのない範囲で紹介しておきます。
 この初代縁福猫の所有者(購入者)は著名な伝統芸能保持者ということで、招き猫や猫のコレクターではないとのことです。亡くなられた後、奥様が自宅に飾っていたということですが、奥様も亡くなられ、前所有者であるご令嬢の元に引き継がれたとのことでした。奥様は作者については聞いていない(あるいは忘れた)ということでしたが、東京都の広報誌に掲載された写真の背景にこの縁福猫がたまたま写っており、それを見た面識のなかった新内の岡本文弥から連絡があり目呂二の作であることがわかった。その後奥様は亡夫が「この招き猫は自分が芸者、東郷元帥が娘の招き猫を河村目呂二から買い求めた」と聞いたことを思い出したとのこと。東郷元帥とは東郷平八郎元帥の子息で縁福猫のパンフレットにある賛助者の黒猫荘(東郷豹)であると思われます。昭和8年頒布の時に東郷豹氏を通してあるいは個人で申し込んだものと思われます。申し込みはがきが100通ほど目呂二の親族の元に残されているということですのでもしかするとその申し込みのはがきが残されている可能性があります。なお、この縁福猫はかつて銀座にあった猫専門の画廊「ボザール・ミュー」で個人蔵ということで絵はがきになったことがあるそうです。