緊急レポート西方寺招き猫の危機     2007年5月4日

緊急事態 西巣鴨西方寺の招き猫が・・・

 招き猫の起源では必ずと言っていいほど自性院(新宿区西落合)や豪徳寺(世田谷区豪徳寺)紹介されるのが、かつて新吉原の日本堤にあり、現在は西巣鴨(豊島区西巣鴨)に移転している西方寺です。
 ゴールデンウィークのまっただ中に「ねこれくと」を見た方から質問がメールで入りました。今年の4月に異動するまでは職場から歩いていける距離にあったのにもう2年以上行っていません。尋ねられたことも記憶が曖昧になっていたので、確認するために久しぶりに西方寺を訪問することにしました。そうはいっても車で15分も走れば着いてしまいます。

       


 ところが何と西方寺の招き猫に一大事がおこっていたのです。招き猫の左手がない!左耳もない!



 2005年2月当時の招き猫
 傷みは進んでいるがまだしっかりしている


 この招き猫はかつては寺の門柱の上にいたのですが、何年か前に二代目高尾太夫の墓の元に移されたのでした。門柱の上にいたころから傷みは進んでいて、ヒビの所には接着剤で補強されていました。門柱からおろされたのも傷みが進んできたからかもしれません。それでも2年前に訪れたときはまだしっかりしていました。

 しかし今回の訪問では哀れな姿に変わり果てていました。招き猫の後ろの地面には石の破片が3個落ちていました。あてがってみると招き猫の頭頂部や左耳あたりでした。破片は指先で崩れる程度の強度しか残っていません。残念ながら、左手はその破片すら残っていません。
 この招き猫は昔の墓石や碑、あるいは狛犬などに使われた日本で最も多く見られる安山岩という火成岩で作られています。長年の間に表面が少しずつ風化することは免れないのですが、江戸時代の墓石や碑石が今でもたくさん残っています。この程度の年数なら十分に耐えられるはずなのです。
 墓石や碑文でも石の縁(へり)や文字の縁(ふち)から風化していきます。この招き猫の場合も、手も細く、細かい細工が多いのでどうしても風化に対して弱いようです。特に後年割れてヒビが入ったところから急速に風化が進んだようです。割れた断面を見ましたが、すでに頭部は中心まで風化が進み白い砂状になってボロボロの状態です。おそらく割れ目から長年にわたって雨水がしみこみ風化させていったのに間違いありません。いわば自然界の岩石の風化とまったく同じプロセスです。このままいけば、胴体や座布団はしっかりしているようですが、頭部には古い亀裂がたくさんあり、頭部の崩壊は時間の問題だと思います。脱落した部分から雨水がしみこみさらに風化は加速していくと予想されます。また日光がよく当たる場所でもあるので崩れ始まるとさらに崩壊の速度は上がります。

 足下にある破片が崩れた頭部  左耳と左手がなくなっている
 ちょうど補修されていた部分になる
 上から  内部も風化して白くなっている  顔の右部分も補修跡から崩壊すると思われる


 どうすればよいのでしょうか。文化財ならレプリカを作って実物を保存という手法を使うでしょうが、これはあくまでも近代の庶民の歴史です。かつて海底ケーブル局の建物保存に関するシンポジウムに出たことがありますが、コンクリート造りの小さな小屋でも風化部分の補強保存に家1軒以上の費用がかかるそうです。この石像も樹脂などをしみこませて補強するという手段もあるでしょうが、すでに失われてしまった部分もあります。豪徳寺や自性院と異なり猫寺で名を売っている寺ではないので、これまでにもあまり本格的な補修はされていないようです。また今の様子を見ていると今後も補修は期待できません。できることなら風雨にさらされない所に引退してもらい、二代目の平成の猫塚(実際には三代目になるかもしれない)に登場してもらうのがいいようにも思います。今は新しくてもやがて月日が風格を与えていきます。しかし、二代目を作るにしてもまとまった資金が必要になります。

 崩壊寸前の西方寺の招き猫を招き猫好きの手で何とかすることはできないでしょうか。いいアイデアをお持ちの方はいらっしゃいませんか。




 追加資料

二代目万治高尾転誉妙身信女・・・  「俗称線香畑無縁塔」  高尾塚


 さてあらためて二代目高尾太夫の墓を見ますと右手に花こう岩の供養塔と安山岩の供養塔があります。花こう岩の方は高尾太夫の何回忌(233回忌?)かの供養塔のようです。安山岩の方は「俗称線香畑無縁塔」とあり、日本堤のころ投げ込み寺として葬られた名もなき多くの遊女を供養する供養塔と思われます。いつ誰が造ったものかはわかりませんが、メールでの問い合わせにあった多くの遊女の墓石は残っていないようです。高尾塚の左手に古い墓石があったのですが、戒名が信士となっており、男のもののようです。もしかすると別に無縁仏の供養塚があるので、そこに遊女達の墓石が使われていることがまったくないとはいえませんが、その可能性は低そうです。

高尾塚と金属製の常夜灯(灯籠)
 高尾の墓の横には立派な高尾塚の碑があります。また金属製の常夜灯に打ち抜かれた文字を見ていると当時の様子が思い浮かばれます。

          これまで気がつきませんでしたが、高尾塚の碑石の左の方に建立者の銘がありました。「新吉原 竹屋七郎兵衛建立」とあります。早速吉原の終戦後、大正時代、明治時代の地図を見ましたが、「竹屋」という屋号の遊郭はありません。
 そのようなとき、撮影した画像に資料が隠れていました。金属製の常夜灯に打ち抜かれている文字です。
 上部は五角形で「土手道哲」「浅草寺」「隅田川」「山谷堀」「待乳山」とあり、台座部分は六角形になっており、「西方寺」「今戸橋」「伝法院」「三囲堤」「紙洗橋」「竹屋の渡」とあります。
 そうです、ここにヒントがあったのです。さっそく当時の見取り図を確認すると、「今戸の渡し」とともにあります。「竹屋の渡」でネット検索するとたくさんの資料が出てきました。「今戸の渡し」は碑があったことを覚えているが、そういえば以前散策したとき名称は覚えていなかったが、待乳山聖天の前の公園に碑があったような記憶がよみがえってきた。
 なんと2004年には北岡ひろしという演歌歌手によって「竹屋の渡し」という曲まで出ているのだった。もともとは待つ乳の渡しといったようだが、付近にあった茶屋の竹屋の女将が渡し呼ぶ声が有名になり「竹屋の渡し」と呼ぶようになったそうだ。この渡しは言問橋ができる昭和初期まであったようだ。

 ちなみに三囲堤(みめぐりつつみ)とは対岸の三囲神社付近の桜で有名な土手、紙洗橋とは山谷堀に架かる橋。土手八丁とは隅田川(大川)から三ノ輪まで続く山谷堀沿いの土手(日本堤)。
 2回登場するのは浅草寺と西方寺(=土手道哲)のみ。いかに西方寺が身近な存在だったかわかる。
        高尾塚の一部
  浅草寺 隅田川
  伝法院 三囲堤
  浅草寺 隅田川
  伝法院 三囲堤
  待乳山 土手道哲
  竹屋の渡 西方寺
  土手八丁 浅草寺
  今戸橋 伝法院
  山谷堀 待乳山
  紙洗橋 竹屋の渡
       投込寺の文字が悲しい(2005年撮影)

 残念ながら常夜灯には銘が入っていません。誰が寄贈したものかもわかりません。高尾塚と同じく竹屋かもしれません。時期もおそらく書かれている文字から考えると震災前後だったのではないでしょうか。
 「土手の道哲」は当時かなり有名であったことを証明するかのような灯籠です。