目呂二の追分俳画展『あけび、秋いろ、浅間山』 (2010年11月3日)


 秋も深まった10月28日〜11月3日まで昨年と同じ、軽井沢追分で目呂二の展示が開催された。第1回の昨年は猫を中心とした展示であったが、今回はまったく猫なしの秋の追分を中心とした俳画展である。これに目呂二と同じ岐阜出身でこの地に移り住んだ園芸家、岡田英人さんのコラボレーション展だ。猫でないだけにゆっくり落ち着いて見学できる。

 紅葉シーズンだけに渋滞が予想されたので早めに家を出発することにする。上里SAに着くころには東の空が明るくなってきた。日の出がずいぶん遅くなった。時間があるのでちょっとゆっくりする。

まだ暗く、東の空には月が昇ってきたところ 上里SAで 青空が広がってきた

 高速道を下り山の中を通って軽井沢に向かう。昨年は雪が積もっていた。天気予報通り曇っていて青空は見えない。道路沿いの温度表示は1℃を示している。寒い。エアコンを入れる。ちょっと時間が早いので信濃追分駅に寄ってみる。初めて行く駅だ。二駅先の軽井沢に比べると田舎の駅といった雰囲気がある。無人駅だ。散策してみる。「ようこそ美しい村へ」の看板が下がっている。もちろん堀辰雄の作品からとった案内板だ。陽光が時折霧の薄い隙間から射し込んでくる。それにしても寒い。トイレも暖房が入っている。防寒着の選択を間違えた。しばらく車の中で新聞を読みゆっくりする。

信濃追分駅へ 霧がかかり寒い 信濃追分駅前
無人駅 「美しい村」とはもちろん・・・

 資料館の開館時刻になったので移動する。今日は文化の日でこの近辺の資料館は無料開放される。昨年も行った堀辰雄文学記念館に行ってみる。日射しが射し込みだんだん霧も晴れて暖かくなってきた。
 今回は堀辰雄夫人で堀辰雄を支えながら自らも文筆活動をおこなってきた堀多恵(堀多恵子)の生涯を資料によって紹介する企画展が開催されていた。今年の4月に亡くなられたのだそうだ。その回顧ということで企画されたようだ。
 目呂二と同じころ、油屋の隣に住み、それぞれ定住の地を見つけて残りの人生を過ごした二組の夫婦。その後も行き来があったという。はたしてどのような会話をしていたのだろうか。

堀辰雄文学記念館 日射しが出てきた
パンフレット紙へ(PDFファイル) 堀辰雄夫人の堀多恵を振り返る企画展示
記念館入り口
堀辰雄が本が収まるのを
見ることがなかった書庫
四畳半だが必要にして十分な広さ

 昨年の雪で白い庭と異なり、今日は空気は冷たいが暖かい日射しが射し込む庭に出る。今は高い木々に囲まれているが堀辰雄がここに居を構えた当時はまだまわりも高い木は少なく遠くまで見渡せたようだ。
 白い家にはいると正面に暖炉がある。写真資料に堀多恵が薪をくべる様子があったがきっとこの暖炉だろう。

こんなところに暖炉があった
手前が書庫、左奥が旧宅、右が白い家 林の中にこんな祠があった
青空を雲が足早に通りすぎていく 今年は紅葉が少し遅い

 追分宿郷土館に行く。今回は2階の展示室で軽井沢測候所の企画展を開催していた。郷土館の裏手に測候所があることを知らなかった。この測候所は昨年の10月1日に無人化されて、軽井沢特別地域気象観測所となった。ちょっと近隣を散歩する。

追分公園を落ち葉を踏みしめて歩く 追分宿郷土館
裏にある軽井沢特別地域気象観測所
日用雑貨「松葉屋」 昼食は「ささくら」

 まだ時間が早いので少し早めだが、昨年食べそこなった追分コロニーの向かいにあるそば屋「ささくら」に行く。あっという間に客が増えてくる。手ごろな価格でのどごしのいいそばが食べられた。

 さて昼食も終わり、向かいにある追分コロニーに向かう。
 今回は猫は登場せず追分の秋の俳画展示が中心となる。同時に秋の草木たちを演出するのが岐阜県出身でこの地で「永楽屋ガーデン」を設立し、自然な庭造りを展開している岡田英人さんだ。岡田さん自身はかつて技術屋だったようで、最近になり幼いときから歩き回った自然を相手に仕事をする決意をしたようだ。

 岡田さんの永楽屋gardenのブログはこちら。

会場の追分コロニー 今回の企画展ポスター
パンフレット表(PDFファイル) パンフレット裏(PDFファイル) 会場入り口
目呂二の好きだったあけび
秋にちなむ目呂二の俳画が並ぶ
色が見事で画像では作り物のように見えてしまうが本物です 永楽屋植栽植物一覧(PDFファイル)
二種類のモミジ
ちょっと猫になった気分でローアングルから

 あとで建物の裏を見るとモミジが1本置いてあった。帰ってから岡田さんのブログを見ると会場内の植栽を植え替えたもののようだ。それほど植物は日々変化していく。さりげない下草の1本にも岡田さんはお客さんに見てもらいたいものを野山を歩いて捜してくるのだ。

 ソロさんの元には目呂二からの葉書が大量に保管されていると聞く。何でも今で言う絵手紙のような葉書で目呂二が逐次追分での生活を絵入りで報告していたようだ。そんな葉書絵が岡田さんの石付きと交互に並び窓際で秋を演出していた。

これを見たらアケビを植えたくなった
期せずして同じようなリンドウが 小さな額は目呂二が送った葉書
Uさんと岡田さんで綿密に展示計画が立てられた
「供出といふ事を手の平の吸ひがら」
これも岡田さんの作品 40年以上かかってつくられた「岐阜の草本の石付き」
ニシシギの実 会場の追分コロニー ドウダンツツジかな

  
 Uさんにうかがうと当時の木通庵は古い民家を移築して建てられたのだそうだ。その後建て替えられたため現在は当時の建物は残っていないそうだ。周辺の木もすっかり生長して浅間山もよく見えなくなってしまったそうだ。そういえば堀辰雄の家からまわりの雄大な景色を見渡す写真があったが、ここも現在では木々に囲まれた別荘地になってしまった。

 分去れまで散歩する。骨董屋が増えたような気がする。ちょっとのぞくがあまり興味のあるものはない。枡形の茶屋の漆喰壁も健在だ。晴れてきたので街道の分かれは影ができて撮影しにくい。贅沢な悩みだ。
 昭和30年ころの写真を見ると分かれ道の向こうは草原だ。ずっと見渡せる。今は木が茂っている。半世紀という時間が景色を変えてしまった。

 目呂二や堀辰雄が生活の場としていたころの追分は今とはまるで違う風景だったのだろう。人の寿命は短い。人間の歴史もたかがしれている。それに比べて自然の歴史はいかに長くてゆったり流れていくことか。浅間山は今も生きている。有史以来何度も大きな噴火を繰り返している。地球の歴史では瞬時の何万年という時間の間に浅間山は噴火を繰り返し、そのたびに噴石や灰に覆われた麓では何度も植物が一から世代交代を繰り返してきた。そんな歴史の中の一点である数十年前に目呂二はこの地で生活を始めた。それから時代はたって追分は針葉樹林に覆われる地になった。いずれ広葉樹林に置き換わり今私たちが見ている追分さえもやがては変わっていく。
 時間に追われる普段の生活を離れ、そんなゆったりした時間の流れの中に身を置くのもたまにはいい。


 泉洞寺に寄っていく。ここも昨年は見事な紅葉だったがまだかなり早い。鐘楼の彫刻が見事だ。

枡形の茶屋 分去れ
泉洞寺参道 泉洞寺の鐘楼

     
 帰りがけに松葉屋をのぞいていく。Uさんの情報に寄ればこの店に目呂二の芸者招きの絵が掛けてあるというのだ。「あった!」正面にかなり焼けているが額に入ったまぎれもなく目呂二の「笑門福来」の絵だ。どのようないきさつでやって来たのかはわからないがご近所づきあいでもらったものだろう。

目呂二の絵がさりげなく・・・
ちょっと渋滞に巻き込まれてしまった

 今回の企画展では目呂二を知る地元の方も見学に見えていた。そして目呂二が贈ったと思われる絵も見られた。没後50年以上たった今でも目呂二は地元で生きている。それを知っただけでも今回の訪問は有意義であった。