2024年(令和6年)岐阜県池田町で、没後65年記念企画『わがまちの芸術家 河村目呂二展』が開催された。教育委員会や町の手持ちの所蔵品で展示をおこなっているようで以前の展示とあまり変わりはなかったという。
見学に行った岐阜のNさんのインスタグラムに何枚か画像が投稿されている。
kaikosuzua インスタグラム 岐阜県池田町は、河村目呂二の故郷
その中に気になる展示があった。目呂二の装丁本で『太田垣蓮月』(1943 成瀨慶子)である。もしかすると以前も展示されていたかもしれないが記憶にはとまらなかった。太田垣蓮月という歌人は残念ながら知らなかったが、幕末から明治の著名な歌人であり陶芸家であった。度重なる不幸や激動の時代の中で、やがて仏門に入り多くの和歌や陶芸作品を残した。
気になったのは著者である。先日も目呂二の展示の際に成瀨(成瀬)姓は岐阜や愛知に多いと聞いた。初代縁福猫の賛助者に名を連ねている成瀨芳子さんも目呂二の遠縁にあたる方だと清原ソロさんからうかがったことがある。目呂二が装丁をおこなっているということは、もしかすると成瀨芳子さんとも関係があるかもしれない。
とりあえず気になった書籍を購入してみた。
太田垣蓮月 | |
表 | 裏 |
『太田垣蓮月』(1943 同文館) 目呂二が装丁をおこなっている 表紙と扉をデザインしている 裏から表に繋がっている墨で書かれた植物に 黄色い花が咲く 何の花だろうか?マメ科?とも思ったが、 托葉があるのでバラ者の可能性がある ヤマブキではないかと思われる 扉は陶芸家でもあった蓮月の茶器 蓮月は器に自らの和歌を釘彫(くぎぼり)で 書いているが 目呂二のデザインでは器と 重ねるように次の句の上句が描かれている 『山里は松の声のみ聞きなれて (風吹かぬ日は寂しかりけり)』 本書では 『山ざとは松のこゑのみきゝなれて 風ふかぬ日はさびしかりけり』 |
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扉 |
昭和18年(1943)に発行されたこの書籍はクレジットはないが表紙とカバー、そして扉が目呂二の作であった。昭和18年というと目呂二はまだ追分に移る前である。成瀨慶子という人物であるが1971年にも『蓮月尼』という書籍を出している。調べていくうちにいろいろなことが断片的にわかってきた。成瀨慶子は岐阜県揖斐郡養基村(やぎむら)出身で養基村は昭和31年(1956)に現在の岐阜県揖斐郡池田町と揖斐川町に分割編入されている。揖斐郡宮地村出身の目呂二とは同郷ということになる。ちなみに『蓮月尼』(1971 成瀨慶子)の箱は熊谷守一のデザインで熊谷守一は岐阜県恵那郡付知村(つけちむら)出身でこちらもいわば同郷といえるだろう。
この「蓮月尼」の序文に野田卯一(1903-1997、国会議員の野田聖子の祖父)の「成瀨夫人と私」という成瀨慶子と知り合った経緯が掲載されている。野田卯一が学生のころ藤村耕一(1892-1976)に紹介されている。藤村耕一は大正末から昭和にかけて多くの雑誌を創刊編集している。成瀨慶子は樫の實(研秀社)という児童教育雑誌の創刊号(大正10年5月)に「二十五年前の活動写真」という一文を掲載している。その後も何回か掲載しているようだ。ちなみに童謡「赤トンボ」(詞
三木露風・曲 山田耕筰)の詩を三木露風が発表したのもこの「樫の實」だった。
成瀨慶子は「婦人評論」(万朝報社)という雑誌を引き受け、「婦人雑誌」と改題して主宰を務めていたという。その後も著述以外にも出版関係にも関わったようだ。成瀨慶子の生没年や経歴の詳細は不明であるが、明治19年(1886)生まれの目呂二より少し後の藤村耕一と同世代ではなかろうか。
その成瀨慶子のご主人が成瀨澄三郎であった。成瀨澄三郎はを農商務省の役人を務めた後、弁護士として活動している。いろいろな会社で顧問などもしていたようで、会社の設立などにも関わっていたようだ。
官報を調べてみると成瀨澄三郎の住所がみつかった。何と成瀨芳子の住所と同じ東京市小石川区大塚坂下町122だった。氏名は不明であったが成瀨芳子のご主人も弁護士であったとソロさんから聴いている。また同じ住所に成瀨澄という人物も会社の会計監査などに関わっていたことがわかった。この成瀨澄は成瀨芳子のご主人である可能性もある。成瀨澄三郎と成瀨澄は兄弟や親子などの親族関係にあったことが予想される。
さらに官報を調べていくと成瀨澄は会社の設立などにも関わっていることがわかった。
成瀨芳子の初代縁福猫申込書の書面に三和銀行開業のことが書いてあった。三和銀行は昭和8年(1933)に三十四銀行・山口銀行(大阪)・鴻池銀行が合併して設立されている。清原ソロさんの話では成瀨芳子さんのご主人は銀行関係者ではなかったとのことだが、この合併に弁護士として関わっていた可能性がある。ちょうど初代縁福猫の販売と重なる時期である。
やや本流の目呂二の猫とはずれてしまったが、今後も並行して調査は進めたい。意外なところから目呂二の仕事が見えてくるかもしれない。
この時代、同郷の人の繋がりは強かったと思える。はたして目呂二がいつの時点で成瀨慶子と繋がりをもったのかは不明である。女性誌の装丁もおこなったことがある目呂二が成瀨慶子編集の雑誌の装丁をおこなっても不思議ではない。木通庵での今後の資料の発掘が期待される。
参考資料 『蓮月尼』(1971 成瀨慶子) 左の箱は熊谷守一作 |
豊島区立中央図書館で上記の『蓮月尼』の序文コピーを入手した。野田卯一(1903-1997)がかなり詳細に出逢いなどを記している。先に記したものと重複する部分もあるが、新たに判明したことも加えて記録しておく。
野田卯一が一高に入学(1921・大正10年)したのと同じ年に藤村耕一は教員を辞め宝文館という出版社に誘われ務めている。野田卯一が藤村耕一に成瀬慶子を紹介されたのは一高3年のころなので大正12年(1923)頃になる。成瀨慶子が「女性」という雑誌を刊行するにあたりその手伝いとして紹介されたようだ。そのころ野田卯一は成瀨家に書生として、そして成瀨澄三郎と慶子の子である澄の家庭教師として成瀨家に住み込んでいる。成瀨澄はそのころ錦城中学校(現在の錦城学園高校)の2~3年であったとのことから野田卯一より少し年下であることがわかる。また序文の記述から成瀨家のあった地は現在の大塚坂下公園の地形に一致する。
野田卯一(1903明治36年-1997平成9年)
藤村耕一(1892明治25年-1976昭和51年)
第7回宝文館の編集者 藤村耕一と北村秀雄 河原努(皓星社)
さらに調べていくと伝記叢書146で「伝記・太田垣蓮月」(成瀨慶子、1994 大空社)が出版されている。これは大空社が近代日本の様々な領域で足跡を残した人々の伝記・自伝・評伝・逸話・遺稿集などを網羅的に復刻したもので全366巻出版されていた。この書籍は昭和18年発行の書籍を復刻したもののようだ。したがって成瀨慶子が記したもっとも新しい著書は「太田垣蓮月」(1971)であった。
成瀨慶子は太田垣蓮月の研究をおこなっているが、同時に雑誌の編集者としての活動を盛んにおこなっている。雑誌ではないが国立国会図書館の検索でみつかったもっとも古い書籍は「誰にでも出来る美容の仕方」(成瀨慶子、1918 実業之日本社)がある。大正7年(1918)の出版だが、単なる美容だけでなく、子どもの健康や衣服についても書いている教養書のような内容になっている。この書の序文は小林愛雄(1881-1945、岡本文弥の師でもある)が書いている。後のプラトン社の名称はこの序文から得ているのか?(国立国会図書館のデジタルコレクションで閲覧できる)
「美しく健やかな生き方」(成瀨慶子、1920 中山太陽堂美粧研究部)を中山太陽堂から出版している。中山太陽堂は明治36年(1903)創業の洋品雑貨と化粧品卸業の会社でクラブ化粧品で有名になり、現在は(株)クラブコスメチックスとなっている。「東のレート、西のクラブ」と目呂二のいたレート化粧品と競い合った会社である。
大正11年(1922)に中山太陽堂の宣伝戦略の一環として傘下にプラトン社を設立して当時の近代女性を対象読者にした女性誌・文芸誌の「女性」(1922~1928)、「苦楽」(1923~1928)などの雑誌の出版もおこなった。成瀨慶子はその発行に関わっていたようで、学生だった野田卯一はその手伝いとして藤村耕一に紹介されたようである。
クラブコスメオンライン(クラブコスメチックス公式サイト) 100年資料館
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「美しく健やかな生き方」表紙(目呂二ではないことを確認) | サイン部分 | ||
1920年(大正9年)6月26日 読売新聞より |
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表紙は目呂二の画風に似るが、目呂二作かは確認できない 出版者にはお抱えの画家がいるだけに無理があるか? |
成瀨慶子は雑誌の発行者・編集者として「女性雑誌」 (1915(大正4年)婦人評論社)1月号を創刊している。発行者は「成瀨慶」となっている。これは「婦人評論」を引き継ぎ発行された雑誌で翌年の5月号までは婦人評論社から発行されている。その後、出版者が売られて新しい発行人佐藤卯兵衛となり7月号からは婦人雑誌社から発行されている。女性雑誌の編集に加わっていた井上猛一が新しい発行人とうまくいかず、出版社を抜けたのもこのころで1916年(大正5年)婦人雑誌11月号に井上猛一退社の記事がある。
昭和初期の雑誌に晩年のトルストイの写真が掲載されている。これはトルストイの末娘アレクサンドラ・トルスタヤがロシアを出て日本に滞在したとき成瀨慶子に贈られたものだという。2年近くに渡る日本滞在で世話をしていたようで成瀨慶子の質素な生活は合っていたようである。
この件に関しては「ニクソンショックに旅す」(野田卯一、1973 大門出版)に成瀬慶子からアメリカに亡命したアレクサンドラの消息を調べて手紙を渡して欲しいと託され訪ねた様子が残されている。雑誌「抵当証券12月号」(1995 日本抵当証券協会)にも当時の協会専務理事の堀場安五郎が野田卯一に遂行して成瀬慶子からの手紙を届けたエピソードを書いている。(内容は前記とほとんど同じ)
戦後も女性教養に関していろいろと記事を掲載している。また「日々の糧」(吉川一水、1951 野口書店)によれば「光りへ社」の編集者である成瀨慶子宅で毎月聖書の研究会が開催されていたようである。「光りへ」は宗教的文芸誌だったようであるが、成瀬慶子自身はクリスチャンではなく、いろいろな宗教人とも親交があった。
いろいろな活動を探してみて、今のところ成瀬慶子の名が確認できるのが大正初期の雑誌編集者としての記録がもっとも古いものであるようだ。したがって仕事をした年代から考えると成瀬慶子は目呂二と同年代の人物ではないかと考えられる。
大正初期に多くの文芸雑誌が 創刊されている 目呂二も雑誌に関係する仕事が レートに入社する前の 最初の仕事のようである 目呂二は同郷である成瀬慶子に 出版に関係して出会った可能性がある ※「成瀨慶子その後」を参照 |
その後、「想 -教育を見つめて-」(桜福之助、1979 表現社)という書籍をみつけた。これは著者が校長時代にいわゆる学校通信に掲載した文をまとめたものである。この文は「想」昭和46年(1971)12月号No.63にあたる。ちょうど「蓮月記」がでた年である。短いので全文を記載しておく。
今は亡き徳永氏の一人雑誌で[蓮月記」の著者を知る。その著者がなんと成瀬慶子さん。 二十八年以前、附属小学校勤務の最初に担任した慶記君の祖母である。慶記の名もおそらく 祖母がつけたのであろう。その後交際はきれず、一昨年は慶記君の経営する塗料会社が、壁 の塗りかえをしてくれた。 早速お祝いの電話をしたところ、その著書を贈っていただく。前建設大臣野田卯一、新劇女 優山本安英などが序文を書き、熊谷守一画伯が装画されたすばらしい書物である。読むうち に成瀨家の、また慶子さんの奥床しい雰囲気、勉学振りに教えられた。 |
「想 -教育を見つめて-」(桜福之助、1979 表現社) |
二十八年以前というのは昭和28年か?東京学芸大学附属豊島小学校か附属追分小学校の時代であると思われる。
成瀨慶記さんは成瀨慶子の孫ということで、成瀨澄の子であろう。成瀬芳子が母であるのだろうか?終戦前後の生まれと思われる。
成瀨慶子その後 2024年8月の小灯ギャラリーで目呂二のひ孫の内山舞さんからの聞き取り。 成瀨慶子は目呂二のいとこであることがわかった。旧姓などはわからなかったが目呂二とは幼い頃から知っていたようだ。 成瀨芳子も目呂二の遠縁ということだったので成瀨慶子との関係が濃厚である。 成瀨芳子は踊りの名取りということであったが、踊りの流派もわかった。今度詳しく聞いてくるつもりだ。 |
編集者としての岡本文弥について(1895-1996)
岡本文弥は1895年(明治28年)生まれで、新内節の家元や随筆家、俳人としても有名で1996年に101歳で亡くなるまで現役で活躍した。京華中学校(現在の京華高校)を卒業し早稲田大学を中退した後、出版社で文芸誌の編集をしている。大正4年(1915)に成瀬慶子のもとで「女性雑誌」の編集をしている。翌年女性雑誌が身売りされ経営者とうまくいかなかったため退社し11月号にその旨が記されている。その後「秀才文壇」の文光堂に務めて編集者を務めた。童話雑誌「おとぎの国」(大正8年創刊)の編集や少女小説雑誌「令女界」(宝文堂)の編集をおこなった。その岡本文弥が編集者だった文芸誌に小説を投稿した小森多慶子と知り合い大正7・8年から13年にかけていっしょに暮らしていた。岡村が童話雑誌編集をしていたので小森多慶子も童話を書き始めた。しかし大正13年病で亡くなる。
小森多慶子の著書「紅子の死」(1924 宝文堂)の序文には次のようにある。
『この作品集の序文を彼女に代わって私が書かなければならないというのは、なんという悲しいことでしょう。 (略) 彼女は 小川未明氏を敬愛し、ほかの意味で成瀨慶子夫人に感謝をささげておりました。「令女界」に関係のある方々の御厚意は彼女と 共に私も生涯忘れることが出来ません。 (略) 』 大正13年5月27日 井上猛一 |
「紅子の死」(小森多慶子、1924 宝文堂)序文より抜粋 |
「紅子の死」は小森多慶子のは遺作集となり、序文は著者が亡くなっていたため井上猛一が書いている。井上猛一とはいっしょに暮らしていた岡本文弥のことである。「令女界」は宝文堂が1922年(大正11年)~1950年(昭和25年)まで発行していた女性雑誌。
目呂二も「處女」(女子文壇社)、「秀才文壇」(文光堂)、「現代婦人」(女子文壇社)などで出版界と関わりを持っている。「處女」1914年(大正3年)8月号では読者のスケッチの募集と選者の若手画家として紹介されている。この時期に成瀨慶子や井上猛一と知り合った可能性がある。
文学青年として作品を投稿し、自らも編集者になった岡本文弥であったが、関東大震災以降の活動は新内節に集約されていくが、随筆活動は生涯続いた。
岡本文弥記念館
岡本文弥プロフィール テイチクエンターテイメント
小森多慶子(1892(明治25年)-1924(大正13年))
小森多慶子 つぶやき館 小森多慶子、忘れられた典籍の夭折の少女文学作家 彷書月刊1994年4月号が元になっているようだ。
目呂二 (1886(明治19年)-1959(昭和34年))
その後、文京区立真砂図書館調べ (2024年8月5日調べ)
目呂二装丁本から成瀨慶子をたぐってとんでもなく脇道に外れてしまったが、縁福猫の協賛者「成瀨芳子」への道筋が少し見えてきたような気がする。やはり大塚坂下町に住んでいたころの成瀨家の方々が突破口になりそうだ。当時の小石川区大塚坂下町は現在文京区大塚6丁目になるので文京区立図書館に保管されている文献調査ということになる。
火保図(火災保険地図)や古い町内図、ゼンリンの住宅地図や電話帳など資料はいろいろありそうだ。そして当時住居のあった場所は「大塚坂下町公園」(平成15年開園)になっている。公園設立当時は地元住民と利用に関して話し合いがもたれたようなのでそのような資料も存在するかもしれない。
2024年8月5日文京区立真砂図書館に資料を探しに行く
リファレンス部で相談したがけっこう難儀した。ついに主任のような方が登場した。
読売新聞1920年(大正9年)4月6日 夫人欄に成瀨慶子記事を掲載している これは著書「美しく健やかな生き方」とも 連携していそうだ また成瀨慶子の画像も初めて姿現した |
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読売新聞 1920年(大正9年)6月26日 これは書籍の紹介記事 |
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1937年の火保図が見つかった これによると以前レポートした「3 縁福猫の協賛者成瀨芳子を探す」の 航空写真にあった木々に囲まれた住宅は「芳賀」宅であったようで成瀨宅はもう少し奥になる 周囲の家屋も成瀨家のものかは不明であるが少なくとも離れはあったはずだ 1931年(昭和6年)地籍台帳を見ると大塚坂下町122の所有者は成瀨とは異なる 周辺の家も土地の所有者が異なり借地であった可能性がある 当時は借地が多かったということで、地番122は面積が400坪以上ある 「goo地図」のサービスは2023年9月27日で終了してしまった ここの古地図や古航空写真はひじょうに有用で「ねこれくと」でも何回もお世話になった したがって成瀨家周辺の航空写真は再入手できなくなってしまった このあたりは現在もほとんど道路が変わっていない 気候がもう少しよくなったら再度散策して検証してみたい ちなみに嘉納とあるのは講道館の嘉納治五郎である |
火災保険地図(火保図)(1937) |
大塚坂下町公園の前身となった六丁目児童遊園は1970年あたりには存在する またかなり早い時期の昭和30年代に住宅地図上に成瀨の氏名は見られない このあたりはもう少し精査してみる必要がありそうだ |
新聞記事はかなり有力な情報源になる。しかし新聞社のデータベースは契約料が高い。このようなDBと契約を結んでいる図書館で調査をすることにした。
さらに調査続行。
現在成瀨慶子の著作権者を探しています。ご存じの方はお知らせください。 おそらく成瀨澄三郎・成瀨慶子の孫あるいはひ孫の代になると思われます。 |
ねこれくと内の関連項目
『縁福猫の協賛者成瀨芳子を捜す』 8「目呂二雑記」内
『追加資料 縁福猫の賛助者書簡と申込書』 1「目呂二の招き猫 縁福猫(いわゆる芸者招き)」内
参考資料
誰にでも出来る美容の仕方(成瀨慶子、1918 実業之日本社)
美しく健やかな生き方(成瀨慶子、1920 中山太陽堂美粧研究部)
寂光の人蓮月(成瀨慶子、1935 春秋社)
太田垣蓮月(成瀨慶子 1943 同文社)
蓮月尼(成瀨慶子、1971 同成社)
文弥芸談(岡本文弥、1963 同成社)
芸流し人生流し(岡本文弥、1972 中央公論社)
紅子の死 」(小森多慶子、1924 宝文館)
彷書月刊1994年4月号
女性雑誌1915(大正4年)~ 婦人評論社後に婦人雑誌社)
想 -教育を見つめて-(桜福之助、1979 表現社)
ニクソンショックに旅す(野田卯一、1973 大門出版)
抵当証券12月号(堀場安五郎、1995 日本抵当証券協会)
官報 (国立国会図書館デジタルコレクション)
読売新聞
東京市小石川区地籍台帳(1931・昭和6年)