わがまちの芸術家河村目呂二展 2009年9月15日〜2010年1月15日
昨年「ねこれくと」上に次のようなお知らせを掲載しました。
「郷土の芸術家 河村目呂二展」のお知らせ 目呂二が生まれた岐阜県池田町にある中央公民館で目呂二の特別展示が開催されています。 『河村目呂二展』では、池田町所有の掛け軸3点と宮地小学校所蔵の彫刻「挺身隊」に小雑誌の表紙絵を展示しているそうです。 生い立ちから創作活動、晩年までの生涯がパネルで紹介してあるそうです。 以前出身の宮地小学校のホームページで石膏彩色の「挺身隊」が掲載されていましたが、今は見られません。その実物が学校を訪問しなくても見ることができるチャンスです。展示作品はあまり多くないようですが、期間が長いのでぜひ行ってみたいと思っています。 詳しくは池田町のホームページ中の有線放送の放送日記の9月29日にあります。 開催期間 2009年9月〜2010年1月15日 (休館日は毎週月曜日、祝祭日の翌日、毎月第3日曜日(家庭の日)、年末年始(12月29日〜1月3日とのことですが、念のため直接お問い合わせ下さい) 場所 岐阜県揖斐郡池田町六之井1455-1 0585-45-7110 池田町立中央公民館2階資料室 終了しました |
2009年は期せずして2件の目呂二の展示会が開催されました。なかなかないチャンスですし、以前から見てみたかった「挺身隊」も展示されます。そこで会期も終わり近くなった2010年1月6日に岐阜まで出かけることにしました。せっかく行くのですからいろいろとやってきたいことがあります。まずは資料集めです。幸い地元の図書館ということもあり、タウン誌なども所蔵しています。今回はそれらを入手すること、そして密かに考えていたのは目呂二の墓です。生前、「戒名はいらない、線香もいらない」といっていた目呂二の墓は今どうなっているのでしょうか。戒名はその後つけられたのでしょうか。目呂二の顔に似た石というのはどうなったのでしょうか。いろいろ興味が尽きないのです。墓地の場所はわかりませんが、事前に調べた文献に「目呂二の墓」という記事があります。これを見れば場所もたぶんわかるでしょう。
そこで今回選んだ最初の目的地は資料の豊富な岐阜県図書館です。
岐阜県図書館に到着して美術館と共通の地下駐車場に車を入れます。無料。偵察に行くと、まだ開館時刻の10時にならないのですが列ができています。みんな席取りのようです。
目的の書籍はというと、上の階の郷土関係のコーナーにあります。開架場所を尋ねるとていねいに全部出してきてくれました。新聞に関してはマイクロフィルム化されています。まず、マイクロフィルムを見ながら記事の検索です。これは遺作展と豆本発行に関してでした。
「西美濃わが街」の71号では特集として「河村目呂二の世界」を組んでいます。製本中の1冊をのぞき、資料を入手することができました。目呂二に関しては情報量が少ないので貴重な資料です。製本されていると折り目のあたりはコピーで上手く出ないので、特に特集号はできれば現物を入手したいところです。
比較的短時間ですむ予定だったのですが、けっこう時間がかかってしまいました。もう昼を過ぎています。
これはほしい遺作展の図録(1977) | タウン誌 目呂二特集 |
次は岐阜市内にある古本屋です。検索で「目呂二抄」があることがわかっています。状態がちょっと???という事でしたので、ちょうど行ったついでに見てから判断することにしました。ちょいと近くの銀行に駐めさせてもらい、現物を見に行きました。たしかにそれほど状態がいいわけではありませんが、今持っているものより状態がいい部分もあります。すの子さんの恵存(謹呈)署名も入っています。しかもネットで見ていたより1000円安かったのでリザーブ用に即入手となりました。
河村すの子のペン書き署名 |
さて次は大垣市図書館です。ここには1977年(昭和52年)に開催された遺作展に関しての資料があるはずです。これも郷土関係のコーナーです。
図書館員に尋ねると閉架のようで出てきたのはなかなか立派な図録でした。この遺作展は池田町教育委員会と大垣市教育委員会の共催で大垣市文化会館の大展示場で昭和52年9月17日〜19日のわずか3日間だけ開かれた展示会でした。会期がひじょうに短い割には立派な図録が作られています。ページ数もかなりあるので著作権上どうかなと考えましたが、資料として入手することにしました。これも現物を手に入れたいものです。しかしおそらく市場に出回ることは極めてまれではないかと思われます。30年以上前ですが、もしかして役所の倉庫になどという期待がちょっとよぎります。
さて最後は今回のメインである『河村目呂二展』です。
池田町の公民館の駐車場に車を駐め、会場に向かいます。小さな掲示板に猫の案内が出ています。案内に従って展示会場に行くと、中は真っ暗です。灯りがついていません。勝手にスイッチを入れ見学です。記名帳を見ると今日は誰も記名していません。昨日も1名だけです。9月15日から始まり4ヶ月の長丁場の終わりころになるとさすがに入場者はまれのようです。まして平日であるだけになおさらです。
猫に招かれて・・・・・ | 歩いていくと・・・・・ | 資料室にたどり着く |
左は目呂二の詠んだ歌 |
係員がいれば、資料の写真を撮影してよいか許可をもらえるのですが何ともしようがありません。でもせっかくやってきたのでちょっと撮らせてもらいます。
今回いちばん見たかった挺身隊が正面にケースに入って展示してあります。石膏着色の作品です。左側の明るい色の部分は破損による修復あとのようです。
以前目呂二はどのような気持ちでこの挺身隊を制作したのだろうか?ということを書いたことがありました。
現地に行く前に池田町のホームページで挺身隊は大人ではなく子どもであることはわかっていました。この作品は1937年(昭和12年)に第一回文部省美術展覧会に出品した作品となっています。この年目呂二は無鑑査になっています。そして昭和12年というと二・二六事件の翌年で日中戦争が始まった年です。まさに戦時色一色のころです。それだけに彫塑界の中で名も知れた目呂二は国民の戦意高揚のためこのような題材の作品もつくらざるを得なかったのではないでしょうか。その中であどけない子どもの戦争ごっこに題材を求めたのは目呂二のちょっとした抵抗だったのかもしれません。展示の説明の中にも『この作品からは、「戦争」や「挺身隊」などという生臭いものとは全く正反対な、懐かしいのどかさが伝わっています。』と言う言葉があります。
このようにかなり大きな作品 | |
挺身隊 |
「別れの唄」は中山晋平が編集発行して、現在の山野楽器から大正時代に出版された「新作小唄」の楽譜です。装丁を目呂二がおこないました。この「別れの唄」は時々市場に出てくるのですが、楽譜という消耗品だけにあまり状態のいい物は少ないようです。作詞は北原白秋。作曲は親交のあった中山晋平。
軸装された絵が三点あります。
「足るを知れ たらざるを知れ」はどうして天狗とおかめの面なのでしょう。何か陰陽を思わせる図柄です。
「和楽有花戸児和富久喜多留(わらうかどにはふくきたる)」は振り袖を着た縁福猫の元となっていると思われる娘猫です。
「百仙百笑(ひゃくせんひゃくしょう)」は羽織を羽織ったもう少し大人びた姿の猫です。
新作小唄「別れの唄」 | 足るを知れ たらざるを知れ | 和楽有花戸児和富久喜多留 |
百仙百笑 |
今回の展示は以上五点でした。百猫の図などもあるのかと思ったのですが。挺身隊以外はすべて池田町の所蔵品でした。地元でも作品の数を集めるのがなかなか大変なのでしょうね。
春先にもう一度宮地小学校に連絡を取り、いつ頃どういう経路で挺身隊が出身小学校に寄贈されたか伺えればと思っています。所有者の許可が得られればもう少し鮮明な画像でお見せすることができると思います。
なお、池田町のホームページ上の池田町中央公民館 ふるさと資料室(リンク切れ)解説があります。はたしていつまで閲覧できるでしょうか。
※池田町教育委員会の過去の展示物で見ることができます。
夕暮れが近づいています。目呂二の墓の情報を岐阜県図書館で入手していたので、急いで行ってみることにしました。しかしそれらしき場所を行ったり来たりするのですがわかりません。目標の宮地小学校はあります。みぞれも落ちてきて日没も近いのでまた次回訪問することにしました。
帰宅してわかったのですが全くの勘違いでした。住所は揖斐郡池田町願成寺(がんしょうじ)。そこまでは間違っていないのですが、願成寺に願成寺という寺があると早とちりしていたのです。そしてそれを付箋紙に貼って探し続けていたので見つからなかったのです。正確には願成寺にある禅蔵寺(ぜんぞうじ)です。どのような墓石かタウン誌から情報は得ていますが、あえてここには記しません。あらためて訪問してからレポートしたいと思います。
元日の雪が残っている茶畑 | 茶畑の反対側の公園 | |
温泉スタンド給湯所があった | 池田温泉本館 |
最後に池田温泉に入ってから帰路に向かう予定です。カーナビで調べると今いる公園から一本道です。早速向かうことにします。
途中に温泉給湯スタンドがあります。100リットル100円。安いのですが、持ち帰る方法が問題です。
本館・新館とあるのですが、本日は新館は休館日。それはわかっていたので本館に向かいます。こんな早い時間でもけっこう人が多いようです。500円払いたっぷり温泉を楽しんできました。露天風呂は気持ちいいのですが、さすがに今日は外気に触れる顔が冷たいのです。
帰路は快調に飛ばし、帰宅したのは午前1時30分になろうかという時刻でした。
まだ課題は残ってしまいましたが、これでまた訪問する口実ができたわけです。