河村目呂二の墓を訪ねる

                                                              2010年3月28日訪問

 前回訪問した1月の雪のあった風景から桜の咲く風景へと季節は移り変わっていた。岐阜県揖斐郡池田町というと何となく山に近く寒いというイメージがあるが、季節の進み方は東京と変わらないのである。
 すでに満開になっている桜の木もある。大津谷公園の桜は来週末あたりが見頃になるのではないだろうか。一足お先に花見やバーベキューに興じている家族もいる。思ったほど人は多くない。やはり次の週末が桜祭りでにぎわうのだろう。

大津谷公園の桜
大津谷川 揖斐茶の茶畑 禅蔵寺道の碑
茶畑の中の高まりは古墳 願成寺古墳群

 公園に近くには揖斐茶の茶畑が広がっている。その中にポツポツと小高い高まりがある。前回は気がつかなかったが、これが願成寺古墳群(正式には願成寺西墳之越古墳群)だ。古墳時代の後期に造営されたものが多いようだ。現在111基の古墳が確認されていて、8つのグループそれぞれ墓地づくりをしていたらしい。かなり広い地域の人たちが墓地として利用していたようだ。大きな古墳は石室の中にはいることができる。

 古墳群を見ながらさらに歩いていくと目的地の佛巌山 禅蔵寺が見えてくる。この寺は美濃国守護として勢威をふるい、本郷城を築き、願成寺に禅蔵寺を建立した土岐頼忠一族をまつっている寺として紹介されている。
 石段の石は荒い切断面で登りやすい石段ではない。やがてきれいに咲いた花が見えてくる。なぜか石仏?は祠の中に入っているものが多い。保護のためだろうか?ひっそりとしていてだれ一人いない。人影がないのだ。

土岐頼忠一族の墓所     禅蔵寺への石段
 禅蔵寺本殿 昔の石垣のようだ

 寺の奥の林の中に大宮尾白三光稲荷の鳥居が見えた。ちょっと登るようだがお参りに行く。途中に朽ち果てた鳥居がある。小さな社にお参りする。
 寺には神仏混淆の名残で神社がある場合が多い。むしろ寺(神社)側からみれば、その方が自然なのだそうだ。明治時代の廃仏毀釈の影響で神仏別々に考えるようになってしまっただけのことなのである。

大宮尾白三光稲荷へののぼり口


 さて問題の目呂二の墓だが何と大宮尾白三光稲荷の鳥居の脇にあった。寺の墓地にあるものと思っていたが意外であった。だいたい墓地自体が見あたらない。現在の龍昌寺(石川県の猫寺)のように檀家を持たない修行の場としての禅寺として存在している寺もある。はたして禅蔵寺はどのような寺なのだろうか。

 花立てが倒れていたので直しておいた。せっかくだから猫の置物を持ってこようと思っていたのだが、すっかり忘れてしまっていた。次回来るときには持ってこよう。
 今は木の葉も落ちているので墓石もよく見えるが、夏などはかなり葉に隠れてしまうのではないだろうか。それにしても不思議な場所に墓がある。
 墓石の表には戒名もなく『呂』の文字が刻まれている。
 「目呂二抄」に書かれているすの子夫人の文の中から拾ってみると、「生前から墓はいらない、お経もいらない」と言っていたということが書かれている。そして実兄が白木の墓標を建ててくれた。そして河原から見つけてきた目呂二の顔に似ている自然石を建てたとある。目呂二抄が出版された昭和49年にはすでに白木の墓標に書かれた文字は読みにくくなっていたようだ。その時点ですの子夫人はやがて朽ち果てていく墓標の代わりに目呂二の意に反するかもしれないが、「心覚えの一字たりとも石に刻んで残したい」と思うようになったようだ。
 この思いをくみ取ると、建立はソロさんとなっているが、すの子夫人の希望がかなりあったものと思われる。
 「呂」の文字の下には
         『池田山麓の生んだ
          芸術人故山を愛し
          万象を画き詩に託した
          彫塑家
          河村目呂二先生
          ここに夫人と共に眠る
                河野大助識』 とある。
 ???あとで気がついたのだが、昭和49年にはすの子夫人は存命である。したがってこの文字はすの子夫人が亡くなったあと、追加された可能性が高い。このことはいずれソロさんに確認してみたい。ちなみに河野大助とは詳細はわからないが岐阜県出身の日本画家のようである。池田町HP上の桜の紹介で色紙に題字を書いている。

鳥居の傍らにある 戒名はなく『呂』の文字
「呂」の文字はどなたの書だろうか?
最初は「呂」一文字だったのか? あとから追加されたと思われる
 表面   池田山麓の生んだ
       芸術人故山を愛し
       万象を画き詩に託した
       彫塑家
       河村目呂二先生
       ここに夫人と共に眠る
             河野大助識


 裏面  昭和四十九年十一月建之
                 息女ソロ
鳥居の前にいる犬に吠えられた

 実は行く前に先の目呂二の顔に似た自然石が残っていないか期待していた。残念ながら確認はできなかった。もしかすると墓石の基盤のまわりの石は最初に墓標を建てたときの河原の自然石なのだろうか。
 鳥居の向かいにある車庫につながれている犬が激しく吠えるのでゆっくりできず追い立てられるように撮影を済ませ下山するのだった。

 自然を愛した目呂二は夫人と共に郷土の土になり、静かに大好きな自然の中で静かに眠っているのだった。

 でも案外天国では武井武雄や棟方志功などと一緒に自転車で飛び回ったり、今の季節なら桜の下で宴会をやっているかもしれない。
 季節を替えてまた訪問することになるだろう。


 下山後、また池田温泉につかり、疲れをとって次の目的地に向かうのだった。

表の雰囲気がいい池田温泉本館