旧熊谷花街跡で招き猫を探す
「名勝・熊谷堤の桜とともに消えた郭 すべてを知る木彫りの招き猫(赤線跡を歩くより引用)」を訪ねる
(2008年5月5〜6日)
10年ほど前に「赤線跡を歩く」という本が出版されています。その後、増補・文庫本化され現在でも入手が可能です。その中に気になる物件があります。熊谷にある木彫りの招き猫が玄関先にある家です。もちろんかつて花街時代に商売を営んでいた名残です。早く行けばよかったのですが、すでに本の出版から10年が経過しています。今年で売春防止法が施行されて50年がたち、当時の古い建物は次々に取り壊されています。今のうちに見ておかなくてはと思い、ゴールデンウィークの5月5日に「招き猫屋」(仮称)探しに出かけました。
元になったのはこの本 | 玄関先の木彫りの招き猫 |
赤線跡を歩く 木村聡(自由国民社 1998) 同文庫化 赤線跡を歩く 木村聡(ちくま書房 2002) |
そうは言ってもまったく当てはありません。もちろん今もあるかどうかさえわからないのです。情報としてはこの書籍に載っていることだけです。
埼玉県は早くに廃娼がおこなわれました。昭和5年の「全国遊郭案内」の埼玉県のページを見ると、
埼玉県では廃娼県で、貸座敷は一軒もない。したがって娼妓もいない訳だ。けれども乙種料理店というのがあってこれにかわっている。組織や制度もほとんど娼妓と変わるところはない。 (略) 深谷乙種料理店一角 (略) なおこのほか川越市、熊谷町等には実に堂々たる乙種料理店があって、盛んに発展を試みている。 |
とあります。乙種飲食店とはおそらく戦後の特殊飲食店のようなものをさすのでしょう。遊郭はなくなっていますが、形態を変えて、昭和33年まで実質的には延々と生き延びてきたのです。
「赤線跡を歩く」によれば、
熊谷では大正時代に遊郭のあった柳町から弁天町が指定地になり、移転がおこなわれた。大正14年の熊谷大火で消失し、熊谷堤の西の一角に移転した。当時は一面桑畑で乙女町と名付けられ、吉原仲之町を模した大通りに総二階の妓楼が並んでいた。 |
とあります。弁天町は現在の弥生町にあたり、目的の乙女町は現在の伊勢町になります。熊谷堤(荒川堤)自体、当時と位置がかわってしまっているのだそうだ。
さて、どのように探すか。あまり大きな町ではないのでくまなく歩いてみるしかありません。まず大通り探しです。ヒントになるのは先の本にあるモノクロの2枚の大通りの写真です。文字はわかりませんが、大きな木造の建物が映っています。もう一つは旅館「あき山」です。この旅館はすでに上越新幹線のガード下付近に移転している情報は事前に得ていました。また「金盛」という旅館の看板もあります。このあたりが探すポイントになります。ただ物件がいわば過去の負の遺産であるだけにあまり本をおおっぴらに広げて探しづらいところがあります。写真を頭にたたき込みその風景を探していきます
とりあえず、ネットでプリントアウトした地図を見ながら東西方向に上熊谷駅と市営野球場の間を一本ずつ道をずらしながら歩いてみます。
まずいちばん交通量の多い通り。この通りは行田から熊谷運動公園まで続いていますが、そこでぷっつり切れている不思議な道路です。どうも旧荒川堤の跡地を一部利用しているようです。五家寶(ごかほう)を造っている「花堤」という店があるが、これはかつてこのあたりに荒川堤があった名残のようだ。しかしこの通りを歩いた限りではあまり成果はありませんでした。
旅館の「あき山」が新幹線高架近くなので一気に歩く道を線路側にとって見ると、それらしい風景が目に飛び込んできました。しかし道路の中央にセンターラインはありません。はたしてこの通りなのだろうか。やがて木造の立派な建物が右手に見えてきました。右から「お○盛」、読めない。しかしその風情からこれが写真に写っていた建物のひとつであることには間違いありません。するとここがかつての大通りということになります。その後、通りの両側をくまなく探索し、さらに別の通りやその間をつなぐ路地も見て回りましたが、問題の招き猫はついに見つかりませんでした。
道路にあった住宅地図から「お○盛」は「おか盛」であることがわかりました。ここと道路の向かいにある建物以外にはかつての栄華を示す建物はあまり残されていませんでした。しかしよく見ていくと不自然なタイルの塀や旅館跡を思わせる建物が何軒も見つかります。「あき山」は住宅地図にもあるように上越新幹線の高架下の位置に移っています。「金盛」は見つかりませんでした。
また電柱にはかつての町名を物語る「乙女」の表示や踏切にも「乙女町踏切」の名が残っています。天気もあまりよくなかったので今日はここで引き上げることにしました。
かつての名残が会社名に残る | 電柱にもかつての町名が残る | 踏切にも「乙女町」の町名が残る |
こちらは文化町 |
帰宅して撮影してきた写真を本に掲載されている写真を見比べます。するとあの招き猫と写真の玄関とそっくりの写真があります。ただ軒先の形状がかなり異なります。しかし格子や郵便受け、公共料金票などまったく同じです。ここに間違いありません。ここは裏手に祠があり、玄関脇にも小さな祠があり注目していた建物です。写真には写っていませんが、もしかしてどこか見逃していないか気になります。
翌5月6日、天気の悪かったゴールデンウィークの最終日でようやく晴れたので、もう一度確認に行くことにしました。
おまけ1
東武鉄道熊谷線
昨日そこまで余裕がなかったのですが、脇を走っている鉄道の線路の中にすでに廃線になった線路があります。それは東武鉄道熊谷線で結局部分開通したまま、戦後も延長が見送られ、中途半端なまま旅客も伸びず25年前に廃線となったのだそうです。その後延長の話も出たそうですが、一部の線路も土地所有もそのままで今に至っています。地元では妻沼線(めぬません)のほうが通りがよかったようです。
東武鉄道熊谷線は昭和18年に部分開通した、熊谷駅から妻沼町を結ぶ約10kmの鉄道だった。もともと熊谷と館林を結ぶ予定だったが、戦時中の不況と物資不足によって利根川を渡る橋脚ができただけで工事は中断され、その後工事は再開されることなく、やがて部分開通の盲腸線であり利用客が伸びない中で昭和58年5月31日をもって廃止となった。 |
秩父方面 左から上越新幹線(高架)、秩父鉄道(高架下)、 東武熊谷線跡、高崎線(複線) |
熊谷方面(上熊谷駅) 左から高崎線(複線)、東武熊谷線跡(ホーム左)、 秩父鉄道(ホーム右)、上越新幹線(高架) |
右の秩父鉄道に対し、 廃線の東武熊谷線は 踏みきり部分が埋められている |
線路に沿って遊歩道(公園)があり 「かめのみち」と呼ばれているらしい |
熊谷線跡の線路はさび、枕木も朽ちてきています。踏切ではその線路だけアスファルトでおおわれてしまっています。上熊谷駅のホームは秩父線と共用です。しかし列車の来なくなった熊谷線側はフェンスでおおわれています。線路沿いには「かめのみち」という遊歩道(公園)があります。これはかつて熊谷線を走っていた気動車の愛称から来ているようです。
さて、寄り道はさておき、今日は目標がはっきりしているのでまずかつての中心地と思われるところへ向かいます。「おか盛」は古いながら堂々とした建物です。となりの建物との間には昔を偲ばせる路地があります。本に載っていた「あき山」は小径を挟んでありました。現在は裏手にありますが、板塀と看板がなければ一般の民家と見分けが付きません。「おか盛」・「あき山」共に今も営業しているのかどうかはわかりません。渡辺氏の本にあり、昨日見つからなかった「金盛」はどうも「招き猫屋」の右隣にあった店の屋号のようです。
このあたりがかつての中心地か? | 旅館「おか盛」と「あき山」の名が残る | |
旅館「あき山」跡 | ここもかつては旅館だったのだろうか? | 旅館「おか盛」 |
現在のあき山は跡の裏手にある 板塀に雰囲気が残る | 「おか盛」の脇の路地 |
その「おか盛」の向かいが探していた目的の建物「招き猫屋」です。今となっては屋号もわかりません。著者の木村さんが歩いたころはまだ昔の様子を伝える旅館が3軒並んでいたようですが、今となってはいちばん左にあったこの「招き猫屋」の建物が残るだけです。狭い前庭には祠があります。以前は建物の前に板塀があり祠も見えなかったはずです。昨日は玄関の軒先自体がそれほど新しいものでなかったため気がつかなかったのです。そう考えると木彫りの招き猫はかなり前に失われたものと思われます。もしかしてどこか別の場所に移動していないかと思って探してみたのですが見つかりませんでした。縁起物であるだけに、おそらく捨てることはないでしょうからきっと今でも室内にあるのではないかと想像してしまいます。
建物はけっこう奥行きがあり、脇の路地を入っていくと裏手にも小さな祠があります。中庭になっていたと思われます。路地の向かいのお宅も表は取り壊され、まったく新しくなっていましたが、路地側にある玄関は昔ながらの雰囲気を伝えるものでした(玄関が開いていたこともあり撮影はできませんでした)。
町の中を探索しているとかつて40軒ほどあったという旅館の名残りのような建物を見かけます。商店や住宅などとして、その後活用されているようです。さらにリフォームされたりしてはたしてそれがかつての旅館の跡なのかどうかはわからないところもあります。また個人宅として使用している建物がほとんどのため、以下は撮影した画像の一部をトリミングして掲載しておきます。これ以外にも玄関先のアーチなど当時を思わせる物件が何件もあります。
また散策を続けていくと場違いなところに小さな祠を見かけます。おそらくかつては旅館などの庭先にあったものが取り残されたのでしょう。
ここだけ不自然に残るタイル壁の一部? | 猫だけが知っている | つくりはかつての旅館風 |
ここのつくりも民家風ではない | マンションの裏に残る小さな祠 |
戦後60年以上たち、赤線の灯が消えて50年。歴史の跡は確実に消えつつあるのを感じた2日間でした。
おまけ2
熊谷の招き猫2体
熊谷で見つけた招き猫2体
手だけの招き猫? 向こうは五家寶の「花堤」 |
ずばり「猫のて」 |
この報告を書くにあたり、入手した「近代庶民生活誌14」南博 編(三一書房 1993)に付いていたビデオを見ていると働く女性の部屋に招き猫が置いてありました。昭和30年前後でしょうが、昨今に多い常滑系ではありません。伊万里や九谷、瀬戸といったものでもありません。何となくボテッとしたつくりの招き猫でした。