小松市『猫宮』を探しに行く(2010年3月29日)

 以前加州猫寺調査を石川県立図書館で調査中、司書の方から紹介された本の一冊に「加賀の串 遊女の墓」(川良雄・池田己亥一、北国出版社、1972)があった。コピーはとったが、メモが行方不明になってしまったので書名が不明であった。この本に猫宮が小松市の旧茶屋である串町にあることが記されている。金沢までは行くもののなかなか時間がなく、いつか見に行きたいと思っていた。今回は石川県立図書館での調査方針も定まっていなかったので、そちらはキャンセルして出かけてみることにした。手がかりはこの本の記載だけで住所はまったくわからない。
 この小松市の猫宮は「猫神様の散歩道」(八岩まどか 青弓社 2005)や「猫めぐり日本列島」(中田謹介 2005)にも紹介されていない。「猫の歴史と奇話」(平岩米吉 池田書店1985)、「猫の民俗学」(大木卓 田畑書店 1975)、「ねこ」(木村喜久弥 法政大学出版局 1959)といった猫関係の定番ともいえる書籍にも見あたらない。龍昌寺と同じように地元では知られていても、全国区的にはある意味では忘れられた存在になっている。これは招き猫とは直接関係がないものの紹介するしかない。

 小松市立博物館に行って情報収集することにする。ここには大学時代収集した植物化石が収蔵展示されているはずだ。小松博物館には久しぶりに行く。30年ぶりくらいだろうか。よく覚えていないのだが以前とはかなり変わっているはずだ。小松市内は小さくまとまった、住みやすそうな街だ。
 館内は展示入れ替え中で自然科学部門は閉鎖中だった。人文関係部門だけ見学する。帰りがけに学芸員らしき方に大学時代お世話になったS先生のことをうかがうと、今日はみえていないがお元気に化石の整理をされているとのことだった。
 猫宮についてうかがうとよくわからないとのことだが、目標になる遊女の墓は有名なようだ。付近の様子や資料館のことを教えてもらい、地図のコピーもいただいた。この資料館が目標だ。

    
小松市立博物館(林の中)
串茶屋民俗資料館

 カーナビにもこの資料館は掲載されている。さっそくセッティングして向かう。それほど遠くない距離だ。すぐ近くに着いたのだが、問題は駐車場所だ。近所をぐるぐる回る。こんな時車は不便だ。

 串町公民館のとなりにある串茶屋民俗資料館を訪ねる。一般の民家を資料館にしたようだ。鍵がかかっている。電話番号が書いてありそこに連絡すると開けてくれるようだ。館長さんに電話をすると今日は金沢にいると言うことだ。残念ながら今日の見学は不可能となってしまった。せっかくなので猫宮についてうかがうと、かつて小学校の近くの交差点付近にあったが今はないという。何と言うことだ。やはり遅かったか。しかし祠は串神社に移設したらしいとのこと。詳細はよくわからないという。暗雲が立ちこめてきた。


 それでは猫宮のあった串茶屋とはどのようなところだったのだろうか。

 串茶屋の起こり
 串茶屋民俗資料館で制作したパンフレット「くしちゃや ものがたり」から引用・要約させていただくと、

 慶長年間(1600年頃)幕府は一里塚を築き、串茶屋にも設けられた。この付近に武田という浪人が府中屋を、木下という浪人が木下と称する茶屋を開き、茶菓子の接待をしたことが始まりといわれている。
 婦女による飲食の接待が次第に盛んになり、許可を得てお茶屋として発展していった。
 寛永5年(1628)に区志村より分離独立し串茶屋村となった。
 文化・文政の頃より京都の風習を習い、教養高き遊女をかかえ、全盛を極めたが大火や倹約令、飢饉や一揆のため急速に衰え始め、明治32年(1899)その歴史に幕を下ろした。
                                    「くしちゃや ものがたり」(串茶屋民俗資料館発行)

    
 まずは街の散策で、遊女の墓の見学だ。小高い丘の上にある。かつて狐塚とよばれた丘陵だ。これは後述の猫宮と関係ある狐を祀った塚があったようだが現存はしない。大木のおおい繁る森はいつしか狐森と呼ばれるようになったようだ。史跡の標識が立っている。一番奥に地蔵がありそのまわりが遊女の墓だ。これだけ遊女個々の墓が多くまとまっているところはあまりないという。かなり痛みの進んだ墓石もある。風化と共に近年あった能登沖地震の影響で痛みが加速したそうだ。六地蔵の屋根の中には六地蔵のいわれと遊女の墓の配置や墓標の文字の解説は置いてある。串茶屋遊女の墓保存会が調査作成したものだ。残念ながらこの会は会員の減少と高齢化により現在は解散したとのこと。小さな町では多額の補修費は出せず、今後の保存が問題なのだそうだ。

この坂の上にある   説明板(表)    説明板(裏)
六地蔵の由来  遊女の墓見取り図  墓石はかなり痛みが激しい
ここらあたりがかつての狐塚?

 墓地は3回移転されているのだそうだ。墓石には遊女の歳が記されているものもあるが、やはりみな若い。それだけ過酷であったのだろう。

 すでに茶屋の建物は現存しない(移築はされているらしい)そうだが、古い時代を忍ぶ建物は何件が見受けられる。

 一里塚 串茶屋バス停
  三階の松跡

 公民館近くにある正八幡神社の寄る。ここには遊女の石灯籠がある。社殿は無人のようだ。賽銭箱もない(社殿の中?)。どうも掲示物から見ると賽銭をねらって侵入者があったようだ。社殿の脇に小さめの社がある。その鳥居の両脇に遊女の石灯籠がある。遊女の石灯籠といっても茶屋が奉納したもので幕末の文久(1861〜84)の元号が読み取れる。今から150年ほど前だ。

正八幡神社 鳥居の向こうが遊女の石灯籠
遊女の石灯籠 文久の元号が見える

 目指すは串小学校。途中に町内の案内板がある。場所の確認に見ると、何と猫宮がある。しかも2カ所、・・・。とりあえず行ってみるしかない。

 猫宮はあった!しかし・・・・名前だった。猫宮さんなのだ。でも場所からすると小学校の近くなのでもしかすると猫宮があったから猫宮さんなのかもしれない。ただし真相は不明。何か痕跡か、本に載っていた場所と似たところはないか付近を散策する。猫宮さんの裏手に何か気になる石がある。もしかしてかつての社の一部???いやな予感がする。
 それ以上の手がかりがないので串神社にいそぐ。

猫宮が・・・、しかも2軒・・・
猫宮はあった!が・・・
二軒の猫宮さん もしかしてこれは・・・

 いよいよ串八幡神社に向かう。地図を頼りに行くとちょうど鳥居と石灯籠の設置をしていた。なかなか見られない光景だ。鳥居はばらばらのパーツを組み立てるという感じだ。ずいぶん思っていたイメージと異なってパーツは多いようだ。
 境内にはいるとやたら奉納物が多い。そういえばさっきの正八幡神社にも見られた。よく見ると初老祝いで、55歳になったときみんなで奉納する習慣があるようだ。
 お参りを済ませ、それらしいものはないかと奉納品を順番に見ていると石造りの祠があった。近づいてみるが何も文字は刻まれていない。唯一の手がかりであるコピーと見比べてみる。網掛けで粗い写真なので確実に同じとはいえない。しかし欠けている部分が同じようにみえるのでほぼ間違いないだろう。
 猫塚は何の表示もないまま、静かに神社の敷地の片隅で眠っているのだった。はたして町民の中にも何人その存在を知るものがいるのだろうか。やがて忘れ去られていく運命にあるのかもしれない。何とか記録にとどめておくためにもこの「ねこれくと」で紹介しておきたい。

  珍しい光景 鳥居と石灯籠の設置
 寄進物がやけに多い   見つけた!!

 ところで猫宮とは何であるか。各地に猫宮と同じように猫を祀ったお宮はいくつかある。しかし小松の猫宮は化け猫なのだ。それでは猫宮伝説とはどのようなものなのだろうか。資料が少ないのだが、この猫宮を知るきっかけとなった「加賀の串 遊女の墓」にいわれが記されている。

 猫宮の伝説には次のようなものがある。
 『狐森には、僧侶に化けた老狐が、遊女に化けた老猫の多くの遊客を喰い殺したのを怒り、これを殺さんとして、反って死するに至ったのを憐み、一祠をつくって祀ったものがあった。また人を殺した老猫にしても死んだ上はといって隣の串に猫宮なる祀堂が建てられていた』 
          「加賀の串 遊女の墓」(川良雄・池田己亥一、北国出版社、1972)より引用

 さらに「加賀の串 遊女の墓」にはこの伝説の出典である「御幸のひかり」(奥一郎 編 大正13年)の全文が載っている。これを全文引用すると、

 ”寛永十七年、前田利常江沼郡那谷寺再建の企てある頃、番匠頭棟矢田野村某及譜代奉行某等、一日粟津に宿を求めて休みける時、浴槽内に遠近の百姓共の話に「禅理に深く通ぜる雲水の僧が、連日蟻出村付近の念仏堂山にて法話をなせり。」といふ。譜代奉行等不思議に思ひ、翌日日没を待って念仏堂山に行きて見れば、老若男女踵を連ねて法話を聞けり。奉行法話の終るのを待ちて老僧の跡を追い行き
「御坊は何処の人ぞ。」と問へば、「我は今江村狐森に住む老狐なり。」又、重ねて、「化僧となりしは。」と尋ねるに「此串遊郭の木下といふ妓楼に、毎夜怪猫現れ遊女の変化して、遊客を喰い殺す。然れど我一人にて此難を除くことを得ざるを以て、法話をなし集まりし人の中に、見方を得んと欲す。」といふ。
 譜代奉行は翌日化僧と共に妓楼に行き、酒肴を命し夜の更ける頃、添寝せし彼の妖女を押さへ縛らんと争へり。暫くありて奉行の足元にて、一声叫んで妖女は倒れたれば、奉行は血に染まった大刀を拭ひ、小謡を口づさみ粟津を差して行きたるが、次の朝、里人と共に来て見れば、何時か彼の怪猫に食い殺された某の骨と覚しき人骨床下より出て、彼の怪猫、古狐と並んで、血に染まり死せり。里人等妖怪の事なればと、串に猫宮、今江に狐塚を築き回向せしといふ。”


 この伝説の時代は寛永十七年(1640年)のことである。はたしてそんなに古い祠であろうか。風化の具合を見てもそこまで古いものとは思えない。あとからつくられたものなのか。それとも二代目三代目なのだろうか?

 これまで猫を祀ったお宮や塚というのはどちらかというと主人を助けて犠牲になった猫が多い。これは逆で森の主でもある狐が化け猫を退治して遊客や村人を助けたのである。狐も退治された化け猫も死んだこととはいえ、妖怪ということで供養され祀られたのである。
 そういえば御前崎に猫塚があった。このときは猫が化け鼠を退治している。退治された化け鼠も鼠塚になっていた。
 この猫宮も移築された後、何も解説がないのは残念なことだ。

 インターネット上でも情報は乏しい。その中で『「加賀はとてもいいところ」の第五章十節「小松から矢田新」の四 沿道の文化財 185 猫宮と狐塚』(ブログ)で見かけることができる。しかしこのデータもおおもとは「加賀の串 遊女の墓」の猫宮同様、「御幸のひかり」がもとになっていると思われる。
 このブログでは猫宮があった場所は小松市串町チ118の中村宅と記され、移築場所も串八幡神社の御神輿庫の右隣とはっきり示されている。なお、先の住所は資料館館長に聞いたとおり交差点付近になるが、住居表示板には中村さんは見あたらなかった。(近所にはあるが)

      
  これが猫宮だ 裏側
祠の正面 右側の欠けが決め手になった 行きとは反対側。こちらが正面のようだ
串八幡神社
石川県小松市串町南1
日が傾ききれいな暈がかかっていた


 かつての串茶屋は芝居小屋もあり、今の静かな町並みからは想像もできないくらいにぎわったのだろう。そのような静かな町の中に知る人も少なくなった猫宮がある。

 陽が傾きかけたころ、串町をあとにして、猫宮の写真を求めてキャンセルしたはずだった石川県立図書館に向かうのであった。