当初、畜霊慰霊祭がおこなわれた大正10年(1921)から百年を迎えるときまでにこの調査を何とかしたいと思っていた。始めた頃はまだ先のことと思っていたが、アッという間に2021年を過ぎてしまった。遅々として調査は進まない。
調査完了の設定を自分の存命中に変更してさらに調査を続行している。それでも時間があまりない。すでに当時の関係者は鬼籍に入ってしまったと思われるので資料だけが頼りである。
最近は畜霊慰霊祭に大きく関わった白山湯本舗の越野政吉から何かわからないかという方針で調査をおこなっていた
なお、未完の「加州猫寺調査隊 その26」はタイトルが『白山湯本舗とは、越野政吉とは、その後』となっているので、続編にもあたる「その28」はタイトルが「さらにその後」となっている。「その26」では白山湯本舗と越野政吉に関する所在地の特定に関して扱っている。残念ながら入手した資料がどこかに紛れ込みまだ未完のままとなっている。見つかり次第まとめる予定である。
最近になって意外な資料が出てきた。これは「その26」にも影響するかもしれない。
実業家であることは間違いない越野政吉だが、その正体がわからなかったが氏名を官報で見つけた。
これは国立国会図書館のデジタル・コレクションが2022年末に大幅に刷新されたことが大きい。1883年(明治16年)から1952年(昭和27年)までの官報をすべて見ることができる。それ以外にもデジタル化されている資料が入手できる。
これによって実業家「越野政吉」についての情報がかなり入ってきた。すでに石川県立図書館で入手した資料もあるが、まだ検索途中なのでこれからいろいろな発見があるかもしてない。今回はその中の一部を紹介する。
なお、越野政吉は同じころ群馬県で会社を立ち上げた人物が存在するが、営業内容などから同姓同名の別人であると思われる。
越野政吉が最初に官報に登場するのは明治39年(1906)である。
明治39年の官報 | |
明治39年8月2日 官報6928号 | |
これは叙勲者であるが、 年代から見て日露戦争だろうか ただし、出身地などがわからないので 目的の人物であるかはわからない 群馬県の同姓同名の人物で あることも否定できない 事業を立ち上げた時期や 昭和天皇大典記念の画像とも 年齢的に違和感はない |
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上の官報の拡大 |
白山商館について登記の記録も出てきた。
合名会社白山商館を登記したときの記録 大正2年1月7日に登記している 本店は金沢市安江町71番地 (現在が町名は残っているが 地番は変更されている これに関してはその26で扱う) 湯の花や鉱泉を扱った 事業であることがわかる 新年の新聞広告の最初が大正2年なので それとも時期が一致する 住所は白峰村字白峰となっている ここは時々行くところなので 別に現地で調べてみたい |
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官報第136号 大正2年1月15日(1913) | |
ここで意外な情報を見つけた これが問題の情報 越野政吉は昭和4年5月29日に亡くなっていた それにともない6月27日に本店を 金沢市堀川角場町41番地に移転していた この住所はすでに把握していた場所である 越野友吉が入社して代表となっている 越野友吉はこれまで聞いたことがなかったが 兄弟か子と考えられる |
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官報813号 昭和4年(1929)9月12日 |
これは意外であった。かなり早い時期に越野政吉は亡くなっていた。
商号が白山製薬株式会社となり 昭和6年(1931)登記 |
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官報1356号 昭和6年(1931) 7月8日 | |
本店が安江町から堀川角場町に移転している 取り締まり監査役が辞任し、 新たに越野政吉が監査役に就任している 越野政吉は昭和4年に亡くなっているはずだが もしかすると二代目か? 越野政吉は自分の名前を 商店名にも使っているので考えられることである |
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関係部分拡大 |
白山製薬(株)は変更移転 建築材料の製造販売となった 昭和7年2月4日に取締役越野政吉は辞任し、 トラスセメント株式会社となり 昭和7年2月5日に金沢市長町に移転 長町は犀川に近い香林坊付近になる。 番地等は変更になっている |
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官報1596号 昭和7年(1932)4月28日 | |
合名会社白山商館の越野友吉と越野すいは 出資全部を譲渡して退社 越野政吉と越野美代が譲り受け、 越野政吉が代表社員に就任した 昭和9年12月18日登記 合名会社白山商館は存続しており、 白山製薬(株)との関係は不明 |
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官報2420号 昭和10年(1935)1月29日 |
「その25」でキーワードになりそうな項目をいくつか挙げた。
「為替番号 東京18168」 白山湯から広げて「白山湯本舗」、「合名会社 白山商舘」、「湯花本舗 合名会社白山商舘」、
「桝(舛)形白山湯」、「越野政吉商店」、「成金汽罐製作所」とその専属工場 「東洋鑢会社 大阪伸銅所 平尾鐵工所」、
「石川県物産陳列館」、「名誉進歩一等賞」、「湯ノ花の各代理店」、「県内外の白山湯」など。
その中で当時の新聞広告に「皇太子殿下(後の大正天皇)お買い上げ」の文字があった。これに関しては石川県物産陳列館で明治42年に購入したことが確認できた。これはまだ越野政吉が白山商館を立ち上げる以前のことであった。
その後、入浴剤として陸軍などにも納入しているようだ。
明治42年の嘉仁皇太子(後の大正天皇)の 北陸行啓の際に石川県物産陳列館で 白山鉱泉3ダースを購入している これは新聞広告(その25)にあった 皇太子殿下お買い上げにあたるものだろう このことから越野政吉は すでに白峰の湯の花を使った事業を 白山商館を登記する以前の明治時代から おこなっていたと思われる |
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鶴駕巡啓記 石川県立金沢第一中学校校友会(明治42(1909)年9月) |
現在確認できている最も新しい白山商館の情報は昭和18年(1943)である。内容は昭和12年版の信用録である。
帝国商工信用録1943 (昭和12年度版) |
今回の検索では越野政吉は昭和4年(1929)に亡くなっていることがわかった。大正10年(1921)の畜霊慰霊祭から8年後である。昭和天皇の大典記念の写真帖(昭和3年出版)に掲載されている越野政吉の画像は晩年のものであった。(その12)
もし叙勲にあった人物が白山商館の越野政吉なら、生まれは明治10年代の初めころだろうか?
白山商館に関してもいろいろとわかってきた。しかしこれは会社に関しての資料であり越野政吉と畜霊慰霊祭の関わりはわからない。この点に関しては親族への直接取材しかないのではと思っている。年齢から考えると孫はまだ存命であることが考えられる。ただ存命であっても越野政吉は早くに亡くなっているので直接は知らないだろう。しかし何か伝え聞いているかもしれない。
手取ダムができて一部の地域は湖底に沈んだが、白峰の中心部分には古くから住んでいる方が多く残っており、国指定の重要伝統的建造物群保存地区になっている区域もある。まだ越野家は残っている可能性が高い。
「白峰村字白峰イ七番三」は何かヒントを与えてくれるかもしれない。
現在の所、白山商館の情報はここでまで。(続く)