浦佐の猫面(毘沙門堂の猫面)  

浦佐の猫面
 種類:張り子(面)
 制作地:新潟県南魚沼市
 現制作者:早津剛(早津ギャラリー)現在制作されているかは不明
   
  

白の胡粉がけで金色の目 朱の口
紐は劣化して切れてしまったが繋ぎ目のない管状の金属管を切ったもので凝ったつくりとなっている。オリジナルか?
 縦133mm×横190mm



普光寺毘沙門堂に奉納されていた
左甚五郎作と伝えられている
猫の面を模した白と青の猫面が
昭和初期に地元の趣味家によって制作されていた。
昭和初期に廃絶し、その後一度復活したが再び廃絶した。
昭和50年頃高校の教師であった早津剛により復元された。

原型は戦前に地元の彫刻家井口嘉夫が制作したとのことであるが、
これが昭和初期に廃絶したものの原型なのか、
その後一度復活したときの原型なのかは不明である。

なお、HP「社長の独り言」によれば
現社長の両親も制作していたとのことである。
これは昭和初期に廃絶したあと復活したときのものだろうか?
「鯛車 猫」郷土玩具図説第七巻(鈴木常雄、1988覆刻 村田書店)より


浦佐の猫面(毘沙門堂の猫面)は新潟県南魚沼市浦佐にある
普光寺(ふこうじ)境内にある毘沙門堂にかつて奉納されていた。

毘沙門堂の猫面のいわれ
日本郷土玩具 東の部によれば次のように解説されている。

『納所坊主(なっしょぼうず)珍念が按摩の杢市を呼んで療治中、
珍念の骨格が人間の骨格でないことに気づいた。
珍念は大怪猫の正体を現して
杢市に「正体を口外したらかみ殺す」と申し渡した。
杢市はこれを口外してしまい山狩りが始まり怪猫は退治された。
この1月3日を記念して例年怪猫の遺した皮を敷き、
山狩り雑踏の様子を繰り返すことを行事として祝杯を挙げたが
やがて猫の皮が摩滅したため筵を敷くこととなり、
信越一帯では厚筵を「ネコ」と呼ぶ語源となったと伝えられている。
後に左甚五郎が訪れた際にこの伝説に即興を得て
玄関に彫りつけて去ったのが現存の猫面で、
妖気あるといわれている。』

   ※旧暦1月3日の祭りは現在では3月3日に開催されている。


 「新潟文化物語」では次のように解説されている。

『普光寺にはいつの頃からか一匹の猫が住みつき、
この猫が年をとって化け猫となった。
この化け猫が毘沙門堂の堂守を次々と食い殺すようになったため、
村人達は何とかしてこの化け猫を退治しようといろいろと
策を練ってみるが恐ろしくて手が出せない。
そのようなとき、堂守を志願する修行僧がやってきた。
化け猫のことを村人に聞いていた修行僧は、
片眼の按摩に化けて出た化け猫を応戦に来た村人と共に退治した。
人々はこの化け猫の上に筵をかぶせ、
「サンヨ、サンヨ」と言いながら踏みつけた。』

 後にこの日旧暦の1月3日である新暦3月3日に、
堂の中に筵を敷いて、「サンヨ、サンヨ」という
かけ声を唱えながら裸押し合い祭りをするようになった。
     


「日本郷土玩具」と「新潟文化物語」では詳細は異なる部分があるが、
基本的には同じような内容になっている。
残念ながら左甚五郎作と伝えられる猫面は
「日本郷土玩具」発行の直後、
1931年(昭和6年)の火災で焼失してしまった。
昭和初期の販売者は南魚沼郡浦佐町本町、玉屋菓子店とある。
(検索してみると普光寺の近くに現在も玉屋菓子舗が営業している)

毘沙門堂は室町前期の建築といわれていたが、
前記の通り昭和6年(1931)の火災で焼失。
その後、後の文化勲章受賞者である伊藤忠太の設計により
5年をかけて再建された。
屋根は銅板葺きの設計であったが
軍需物資の銅が入手できず木羽板葺きとなった。
その後昭和29年(1954)に瓦葺きとなった。
さらに平成9年(1997)銅板葺の屋根となった。

瓦葺きから銅板葺になるときに
鬼瓦として使用されていた猫瓦が 現在も境内に展示されている。

厚筵(あつむしろ)          金沢の 葛巻内装株式会社HPより
     

  
   

  

ネット上で見られる浦佐の猫面

 新潟文化物語「今だから知りたい新潟の奇談(後編)〜奇祭!化け猫退治に由来する裸押し合い祭り」
 びゅうたび「ネコ好き必見!猫にまつわる神社&お寺を訪ねて雪の新潟へ」
 社長の独り言「魔除けの猫面」
 月刊「痴娯の家」浦佐の猫面
 みやげもんコレクション200 猫面

参考文献
日本郷土玩具 東の部(武井武雄、1930 地平社書房)
「鯛車 猫」(鈴木常雄、1972 私家版)
郷土玩具図説第七巻(鈴木常雄、1988覆刻 村田書店)
全国郷土玩具ガイド1(畑野栄三、1992 婦女界出版社)