附馬牛人形(小笠原家)         

附馬牛人形
 種類:土人形
 制作地:岩手県遠野市附馬牛町 (旧 上閉伊郡附馬牛村)
 現制作者: 廃絶
 
 附馬牛人形に関する資料はひじょうに少ない。武井(1930)でも取り上げられていない。現在まとまった資料として入手できるのは郷土人形図譜「附馬牛人形」(2002)が唯一といってもいいかもしれない。型は花巻人形を元にしたものが多い。しかし今戸の型を元にしたものもあるという。これについては先の郷土人形図譜では触れられていない。今回紹介している子持ち猫も今戸の型が元になっている。

 柳田国男の遠野物語で知られる土地柄だけに人形も信仰を中心としたものがほとんどである。動物の人形も狐(稲荷)やネズミ除けの猫などが作られた。
 附馬牛人形は幕末から明治にかけての制作された人形であるが作者に関しても不明な点が多い。 遠野市立博物館の特別展示目録(1993)では附馬牛村誌から作者は小笠原元美・宇吉父子とされている。また一説には小笠原駒吉・緑父子という名も伝えられている。駒吉と元美、宇吉と緑が同一人物であるかは不明であると記されている。小笠原緑は「續遠野士族名簿」などから附馬牛南部家に仕えた士族であり人形作りが確認できている。また、宇吉の長男の証言からも人形作りをしていたことが確認できている。
 郷土人形図譜(2002)では、さらに調査を進め、明峰治彦氏の調査結果とそこから得られた推測が掲載されている。これによれば従来からいわれていた作者の小笠原元美と宇吉はどちらも小笠原緑で親子であっただろうと推測している。初代小笠原緑は士族であったので元美は幼名ではないかとのことである。要するに初代小笠原緑は小笠原元美(あるいは駒吉)で子の二代目小笠原緑が小笠原宇吉であろうとしている。三代目を誰かが継いだかは不明としている。宇吉の長男恵喜人(1981−1930)は父は人形作りをしていたと証言している。同じように父は人形作りをしていたと証言した宇吉の五男である民人(1901生)は北海道へ移住して現在附馬牛には小笠原家の子孫はいない。
 ※ネット検索していると附馬牛人形は小笠原家三代によって・・・・・とあるが、情報の出所はどこだろうか?

 かつては附馬牛人形は花巻人形の中に組み込まれ、これまで個別に記録されたことはほとんどなく、古い文献でもその名称は登場しない。地元以外でこの人形が知られたのは近年になってからである。しかし花巻人形の型の中には弘化2年(1845)に遠野で彫られたものがみつかりすでにかなり古い時代から交流があったと考えられている。熊谷・他(1975)でも附馬牛人形より創始の遅い気仙高田人形(陸前高田)は花巻の系統として扱われているのに附馬牛人形は触れられていない。
 郷土人形図譜(2002)では附馬牛人形は花巻人形の脇窯としてはあまりに距離が近い。また附馬牛人形は生土を使うため窯を使用しないので型も独自には作れない。そこで型はすべて花巻で作られたと推測している。また小笠原家には花巻から嫁いでいる者も確認できるのでそのあたりの親戚関係が附馬牛人形が花巻のごく近くで共存できた理由かもしれない。
 さがの人形の家で話しをうかがったとき、附馬牛人形は花巻のコピーか打ち込みということだったので今回紹介している今戸の子持ち猫も花巻経由で入ったものと思われる。
 型は花巻と同じであっても附馬牛人形は花巻人形とはまったく製法が異なっていた。その独自の製法は地元の土を焼かずにすさを練り込み、さらに海草の糊を添加して強度を増して天日乾燥させ彩色していた。そのため軽くて丈夫で破損も少なかった。この破損しづらく、破損しても焼いていないため土に帰すことができるという点は早池峰山信仰・縁起物として大切な要素ではないかと郷土人形図譜(2002)では推測している。底には花巻人形と同じように和紙が貼られていた。

  ※すさ:強度を上げるために練り込まれる藁、麻、植物繊維など。土壁の藁すさはよく知られている。
   附馬牛の場合は和紙や大福帳などの繊維を用いた紙すさ

 花巻人形では招き猫が制作されていたが、はたして附馬牛人形でも招き猫がつくられたかは不明である。阪本一也(1997)の聞き取りで佐々木氏から「百才を越す古老の話から『小さいときよく飾った地元の人形(附馬牛人形)は落としても壊れない』、また、『黒の招き猫は魔除けになるといって必ず飾られていた』などという話を聞き参考にしながら制作を続けている」と述べている。前者は附馬牛人形が軽く丈夫ということだが、後者の「黒い招き猫」についてははたして附馬牛人形なのかはわからない。附馬牛の地域には花巻人形も流入していたようである(その逆で附馬牛人形はほとんど外部へは出ていなかった)ので花巻人形の可能性もあるが、需要があるのなら地域で制作したことも考えられる。

定本附馬牛村誌に見る附馬牛人形
定本附馬牛村誌
(附馬牛村誌編集委員会)
より (左)

(PDFファイルへ)



画像拡大(下)
猫が2体写っている
どちらも花巻人形と
同じような彩色に見える
中央の猫は郷土玩具図譜(2002)の
No.36と同じ型と思われる
ただし彩色はひじょうに異なる
左の猫はよく見られる
花巻人形の座り猫と同じ型だろう
(参考画像参照)
 
参考画像

花巻人形古作
おそらく上の画像の附馬牛人形(左)も
これと同じような型であったのだろう 



 遠野で骨董や民芸品を扱い、附馬牛人形の蒐集をしていた佐々木孝和氏の長年の研究によりその製法が復活した。なお、佐々木氏の復活させた附馬牛人形に関しては別に扱う。
         附馬牛人形(佐々木家)へ 

       
初代  小笠原緑(元美あるいは駒吉) 1820?−1898 文政3年頃−明治31年
二代 小笠原緑(宇吉) 1852−1912 嘉永5年−大正元年


 この猫の正体が判明するまでのいきさつについては、ねこれくと写真館 おたずね招き猫 No.1 謎の子持ち猫にあります



今戸型の附馬牛人形

子持ち猫 
端正な顔つきをしている 首玉の結び目があるが彩色はなし
首玉以外は猫の柄とは無関係の彩色 背面の彩色なし
附馬牛人形は60年ほどの期間に
親子二代にわたって制作された
この子持ち猫は今戸の型を元にしているが
赤と青、黒(墨)のひじょうに簡素な彩色である
しかも赤と青の彩色はネコの柄などとは
まったく関係なく描かれている
郷土人形図譜「附馬牛人形」には
3点猫の人形が掲載されている
著作権の関係で掲載できないが
No.23「鯛乗り猫鼠」や
No.36「猫」同様の大胆な彩色である


底面には紙が貼ってあった痕跡  

土には和紙の繊維が練り混んであり焼いていない
土の中には繊維が練り込んであるのが確認できる
底には和紙(反古紙?)の一部が残っている
赤は植物染料の蘇芳か?
柄の彩色は大胆だが、顔は細い線で繊細に描かれる
顔の目から鼻先あたりにかけて、附馬牛人形の特徴である淡い赤の彩色がある
 裏面の彩色はない

江戸東京博物館の調査報告書第4集の金沢春吉作より10〜15%程大きい
高さ81mm×横62mm×奥行44mm

目の付近にかすかに赤いぼかしが残る 仔猫の部分
底に和紙が貼ってあった痕跡 土に漉き混まれた繊維

  

附馬牛人形と今戸人形、芝原人形の比較
附馬牛人形と今戸人形(吉田義和) 吉田さんの復元品に比べかなり小さい
 附馬牛人形と芝原人形(千葉惣次) 千葉さんの作品に比べるとかなり大きい

 この人形は附馬牛人形で間違いないと思われるが他にどのような今戸人形が岩手の地で作られたのかはよくわからない。

この1枚から始まった  
この小さな画像1枚から始まった
古い猫の蒐集はこの1匹と花巻人形の鯛猫がスタートだった
他に情報がなく1998年春、京都に買いに行った
買いに行かずにはいられない1匹だった
店主の話では東北で出たもので遠野の人形ということで仕入れたと
当時の記録が残っている
出会えてよかった
しかしこの骨董店も今はない
広告かと思っていたら
「ねこアートが買える店ギャラリー・博物館」の中で
猫を扱う店の紹介だった

花巻人形が3点がいっしょに写っている







参考文献
郷土人形図譜「附馬牛人形」 (日本郷土人形研究会、2002 郷土人形図譜第U期第3号)
第27回特別展東北の郷土人形(遠野市立博物館、1993 遠野市立博物館)
郷土玩具 職人ばなし(阪本一也、1997 婦女界出版社)
定本附馬牛村誌(附馬牛村誌編集委員会、1954 附馬牛村) 
招き猫尽くし (荒川千尋・板東寛司、1999 私家版)
全国郷土玩具ガイド1(畑野栄三、1992 婦女界出版社)
日本郷土玩具 東の部(武井武雄、1930 地平社書房)
おもちゃ通信200号(平田嘉一、1996 全国郷土玩具友の会近畿支部)
招き猫博覧会(荒川千尋・板東寛二、2001 白石書店)
日本土人形紀行vol.8 今戸人形・芝原人形(日本土人形資料館 企画展パンフレット、2013)
東京都江戸東京博物館 調査報告書第4集 今戸焼 (江戸東京博物館、1997)
創作市場第7号「ねこに遊ぶ」(マリア書房、1997 マリア書房)
花巻人形(熊谷正一・吉田義昭、1975 郷土文化研究会)