下川原土人形 

2018年4月12日 加筆
2021年5月19日加筆修正
                 2024年7月5日加筆修正

下川原土人形・・・下川原焼き(したかわらやき)
 種類:土人形
 制作地:青森県弘前市桔梗野
 現制作者:高谷智二(7代目)
        阿保正志(1967−  )2001年から桔梗野で「下川原焼鳩笛絵付教室」を開いていた高谷清治に師事し制作を始める。
        下川原土人形製陶所 「下川原焼晴山」とあるのは高谷晴治(五代目 晴山は雅号)

     
初代 高谷金藏       −1872年      −明治5年
二代 高谷金松       −1899年      −明治32年
三代 高谷清六       −1918年      −大正7年
四代 高谷徳太郎       −1967年      −昭和42年
五代 高谷充治 1919年−1999年 大正8年−平成11年
六代 谷信夫 1952年−2016年 昭和27年−平成28年 
七代 高谷智二  
       


 高谷亀吉は金松の弟
 太田粂治郎・・・太田久太郎(太田粂治郎の子、高谷金藏の妻の妹の子)   太田久太郎・太田粂治郎(青森県立郷土館 下川原人形) 他にも何点かあり
 元山梅太郎(太田久太郎の姉の長男)

青森NOWという青森大学出版局が出していた地方誌に
青森県児童文学会の北彰介と佐藤米次郎が
「郷土玩具下川原人形」という記事を掲載している
この中に昭和37年(1962)に四代目徳太郎の口述を
基にして系図を作成している
これにより高谷家の土人形作りの流れが見えてきた

青森NOWに掲載されていた佐藤米次郎の版画には
高谷亀吉や太田金藏の名も見受けられる

青森NOW 4号より(上・右)
緑の豆本13
「高谷徳太郎翁の思い出」(1968)

四代目高谷徳太郎の没後出版されたので
表題の通り、思い出が中心となっているが
徳太郎の職人としての人となりがよくわかる 


 

6代目高谷信夫さん(1952−2016)

2003年中野ひな市


 青森NOW4号(1972)によれば、天明(1781〜1789)のころ下川原字藤沢に一人の行者が病を得て居住していたという。その行者が焼物の名人であったため太田粂治郎が教えを受け石川村大沢に高()金次郎らと窯を開き焼物を焼いていた。文化7年藩命により大沢から弘前下川原に窯を移し筑前から五郎七という陶工を招き太田粂治郎らは陶器の生産にはげんだ。その陶製品が「下川原焼」とよばれた。五郎七は冬の窯の休みの間に土人形を制作したところこれが人気を得たという。これが土人形「下川原土人形」の始まりであるようだ。その後、五郎七は陶器制作に専念した。その子の太田久太郎は非凡な才能と優れた技術を持っていたという天才的な土人形師で多くの作品を残したといわれる。文久(1861〜1864)のころ下川原に高()金次郎の子孫の金藏が窯を開き陶器を焼いていたが同時に土人形も焼いていた。明治期に入り下川原焼きの太田家の施設をすべて金藏に譲り、高谷家が下川原焼きの総本家となった。
 なお、太田粂治郎の子の太田久太郎は作品も多く残され、下川原人形の完成者でもあるとのことである。

 初代高谷金藏は若いときに筑前で陶芸を学び、青森に帰って窯を開き、降雪期の生業とした。文化7年(1810)津軽藩主の津軽寧親が藩の産業振興のため、金蔵を下川原に呼び寄せ陶器作りを奨励した。その後、金松(2代目)の代で製陶は放棄し日用雑器と土人形に専念したという。金松の弟亀吉も窯を作り人形を焼いたが明治32〜3年頃北海道に渡った。金松には子どもがいなかったので養女としてナミを迎えその夫の清六が3代目を継いだ。清六(3代目)に作品は残っておらず、ナミの作品が残っているという。その子の徳太郎(4代目)が後を継いだ。さらに1999年3月に亡くなられた充治(5代目)が後を継いだ。充治はナミから指導を受け少年のころより技量に優れていたという。妻のチギと共に制作に励んだ。充治と並行して子の信夫(6代目)が制作を続けていたがその信夫も2016年5月に亡くなった。現在は弟の高谷智二が7代目を継いでいる。
 青森NOWの記述とは初代金藏が筑前に製陶を学びに行ったか、陶工を招いたかの違いはあるがほぼこれまでの調べと一致している。下川原土人形の唐子はその筑前の影響といわれる。

 下川原土人形は鳩笛が有名で大型のものも制作されていた。それ以外の土人形は比較的小型の作品が多く、人形笛になっているものも多い。それ以外に首人形や泥面子なども制作していた。
 型はかなり古いものも残っており、徳太郎の時代に創られたものも多いという。また近年になって充治や信夫の代になっても新しい型が生まれている。
 紫、黄色、緑、水色など独特の色づかいがある。
 現在は七代目高谷智二により所蔵している古い型であまり制作されていなかった人形(笛)も数多く制作復刻されているようなので今後の動向に期待したい。
 なお、高谷智二家の近隣で「下川原焼鳩笛絵付教室」を開いて下川原焼人形を制作している高谷晴治(五代目)は親戚関係にあると思われるが詳細は不明である。
 現在は「下川原焼鳩笛絵付教室」を開いていた窯元の高谷清治(雅号:晴山)に師事した阿保正志も制作をおこなっている。


 招いていない伏見系に似た通常の座り猫は比較的古い文献(たとえば日本郷土玩具 東の部)などにも多く見られる。これは近年の作品群の中には見かけない。現在も制作されている鯛抱き猫も古くからある型のようである。
 川崎巨泉「人形洞文庫データベース」上には次の2点の記録がある。
      座り猫     猫ジャ踊

 「猫ジャ踊」は明治時代に流行った端唄「おっちょこちょい節」の「猫ぢゃ猫ぢゃとおっしゃいますが、猫が杖ついて絞りの浴衣で来るものか」を元にしているものと思われる。ぜひ型があれば復活してもらいたいおもしろいものである。
 小林光一郎の『「踊り歌う猫の話」に歌が組み込まれた背景』によれば弘前にもこの猫ジャ踊の伝承があるという。
 最近になって巨泉の「猫ジャ踊」をはじめとする妖怪シリーズが7代目高谷智二により制作されていることを知った。
         まるごと青森 江戸時代からの妖怪文化が鮮やかに蘇る!七代目智二さんの妖怪シリーズから高谷下川原焼土人形製陶所
 この記事によれば、「酒樽笛」、「袋笛」、「箕笛」、「鍋笛」、「すり鉢笛」、「かぼちゃ笛」は二代目高谷金松が型を作ったもの。
「俵笛」は金松の弟、亀吉が型を作ったもの。「コウモリ笛」、は「化け猫笛」は初代金藏の甥、太田久太郎が型を作ったもの。それに四代目徳太郎が型を作った「河童笛」の11点が妖怪シリーズとしてあるようだ。妖怪の種類としては百鬼夜行に登場する古道具の類が多い。
川崎巨泉の描いた「蝙蝠傘のお化け」が「コウモリ笛」にあたる。「猫ジャ踊」は「化け猫笛」にあたる。
 人形の詳細は上の「まるごと青森」を参照されたい。

        
 今回紹介している猫はすべて高谷充治あるいは信夫の作である。

現在招き猫はこの4種類ある


座り親子招き猫  
座り猫の上に招き仔猫 下川原の典型的な彩色
豪華な前垂れ 親子共に左手挙げ
高さ101mm×横96mm×奥行51mm
招き猫の中ではいちばん大きい
親猫の後ろ足がなんとも愛らしいポーズをとっている
親子共に左手挙げ
紅い首たまに豪華な前垂れ
黒の斑に水色の縁取り
土笛にはなっておらず、底まで胡粉が塗ってある  


親子招き猫  
親子招き猫 左手挙げ 仔猫2匹も左手挙げ
   
高さ76mm×横40mm×奥行43mm
親子招きで人形笛になっている
親と白い仔猫は左手挙げ、
黒ぶちの子猫は両手上げになっている
緑の首たまに赤い前垂れ
緑の紐のついた赤い前垂れ


招き猫  
斑なしの白猫 左手挙げ
 緑の紐のついた豪華前垂れ 尻尾の部分が吹き口になっている
 高さ75mm×横35mm×奥行40mm
いちばんオーソドックスなタイプの招き猫
これも人形笛になっている
斑はなく白猫
底は塗っていない  


座り招き猫  
親子招き猫と同様に後ろ足がこちらを向いている 黒い斑に水色の縁取り 尻尾も同彩色
緑の紐のついた赤い前垂れに黄色の鈴 吹き口
 高さ47mm×横55mm×奥行43mm
八橋土人形にもあるような横座りタイプの招き猫
これも人形笛になっている
左手上げの斑猫


底は塗っていない

 岐阜のNさんが下川原土人形の窯元を訪問した際の画像に気になる猫が写っていた。親子招きの後ろに隠れてしまっているが座り猫で招いていない。しかも耳は黒で彩色されている。このような横座り猫は把握していなかった。招き猫十八番さんの「招き猫115の2」にはサイズ違いの横座り招き猫が掲載されているがこれより大きい。座り親子招き猫の派生タイプだろうか?詳細が気になる。

鯛抱き猫  
立ち上がって鯛を抱き上げる 黒い斑に紫の縁取り 
黄色い部分に乗っているが、何だろうか? 招いているようにも見える右手
高さ61mm×横40mm×奥行35mm

昔からある型
紅い鯛を抱き上げている
このタイプの鯛抱きは  など種類が多い
猫が何かに乗っているように見えるが
何に乗っているかは不明
赤い紐に緑の前垂れ
底は塗っていない  


座り猫  
香箱座り 斑なしの白猫 
緑の紐に赤い前垂れ 吹き口
 高さ22mm×横35mm×奥行36mm

小型の座り猫タイプの土笛
斑なしの白猫
緑の紐に赤い前垂れ
底は塗っていない  


鯛くわえ猫  
大きな鯛を口に咥えて 前足で鯛を押さえている
後ろ足は前の方にあり力が入っている 吹き口
高さ21mm×横36mm×奥行52mm

黒斑の猫
斑には縁取りなし
大きな鯛を咥えて前足で押さえている
底は塗っていない  



 招き猫の裏に書かれた購入日付をみると1993年5月1日とあります。この日弘前市の5代目高谷充治(じゅうじ)さんの工房を訪ねました。高谷充治さんは大正8年(1919)生まれで訪ねた当時は70代半ばでした。「見学させてください」というと「どうぞ」の一言だけで型や型抜きが終わって彩色を待つ土人形でいっぱいの作業場で黙々と制作を続けていました。まさに物静かな職人さんの典型的な方でした。「招き猫の在庫はありますか」と尋ねると、「今ここにはないが青森市で息子が展示即売をやっている」とのことでした。息子さんが充治さんといっしょに制作のかたわら、展示会などをやっているようです。その後、充治さんとは再会することなく、平成11年(1999)3月23日に79歳で亡くなられました。充治さんが亡くなられた後は青森で展示即売をされていた六代目の信夫さんが後を継ぎ、以前と変わらない姿で下川原焼きは作られ続けており、下川原土人形は安泰のようです。  =^・^=

高谷信夫
  鳩笛(はとぶえ)などで知られ、弘前市に藩政時代から伝わる「下川原焼」の6代目窯元・高谷信夫(たかや・のぶお)さんが2016年5月4日午後9時33分、胃がんのため国立病院機構弘前病院で死去した。64歳。
 高谷さんは25歳から下川原焼土人形作りに打ち込み、2002年には県伝統工芸士に認定された。高谷さんが手掛ける優しい表情の作品は、広く人気を集めた。
                                        2016年5月7日 陸奥新報 より編集

 なお、現在七代目となっているのは弟の高谷智二(ともじ)さん。

                       

                  
               

                                     


     【下川原焼土人形】素朴で優しい音色の津軽伝統工芸  弘前Navi(青森県弘前市観光サイト)
     RAB青森放送 鳩笛に土人形「弘前の伝統工芸・下川原焼」(動画) (高谷智二)
     RAB青森放送 鳩笛に土人形「弘前の伝統工芸・下川原焼」(動画) (高谷智二) 上と同じ
     まるごと青森 津軽の雛人形〜下川原焼〜  (2009年の情報なので高谷信夫さん存命中の記事です)

     人形の鯉徳 下川原焼き(阿保正志) 
     別冊とこぐも手帳 弘前 下川原人形  (高谷晴次) 
     下川原焼き土人形製陶所 じゃらんネット (高谷晴次) 


参考文献
招き猫尽くし (荒川千尋・板東寛司、1999 私家版)
日本郷土玩具 東の部(武井武雄、1930 地平社書房)
「鯛車 猫」(鈴木常雄、1972 私家版)
郷土玩具図説第七巻(鈴木常雄、1988覆刻 村田書店)
全国郷土玩具ガイド1(畑野栄三、1992 婦女界出版社)
おもちゃ通信200号(平田嘉一、1996 全国郷土玩具友の会近畿支部)
高谷徳太郎翁の思い出 緑の豆本第十三集(緑の豆本の会、1968 弘前・緑の豆本の会)
郷土玩具 職人ばなし(坂本一也 、1997 婦女界出版社)
日本の郷土玩具 東北(坂本一也・他、1962 美術出版社)
青森NOW4号(青森大学出版局、1972 青森大学出版局)