渋江人形 新版   2025年再編集版

渋江人形(渋江練り物)
 種類:練り物・張り子
 制作地:山形県山形市旅篭(はたご)町
 現制作者:廃絶 
 
 渋江人形に関しては加筆修正して2025年3月に増補改訂版としてアップした。しかい情報の追補分が重なりわかりにくくなってしまった。さらに岩城久太郎さんからの資料が出てきたため、これまでの情報を集約して改めて編集し直すことにした。
 古いページは旧版として残し、再編集したものは「渋江人形 新版」として公開することにした。

下の渋江家の家系は資料を基に構成してみたもので正確とは言えないかもしれない。

      備考
初代  渋江長四郎友房 1816?− 文化13年?− 初代原周堂
二代 渋江熊吉 1854−1929 安政元年−昭和4年 二代目原周堂友房
三代 渋江麻吉 1857−    
四代 渋江彦吉 1888−1965 明治32年−昭和40年   
※五代 渋江和夫 1928− 昭和3年−  

 ※五代目渋江和夫は人形店は継いだが、渋江人形は制作しなかった
 ※岩城徳治郎・久太郎のまとめた岩城メモ「渋江人形と山形張り子の歴史」による(本人から間違いがあるかもしれないとの注)
  これによれば二代目熊吉、三代目麻吉となっているがこれは家督を相続する渋江家での代かもしれない
  岩城メモでは岩城徳治郎を六代目、岩城久太郎を七代目としている。これは渋江人形の伝統継承を岩城家が引き継いだためと思われる。

「山形県商工案内」から引用すると山形の玩具について次のような記載がある

山形市の玩具
<略> 其の後弘化三年徳川旗下の士土岐備前守の三男彫刻師虎之助友房なるもの各地漫遊の志を起し東海道を経て東北に入り我山形市に来れり而して当地の未文化に浴するの遅きを歎し教育の忽にすべからざるを悟ると共に自己の製作に係わる玩具の如きも児童教育の一助たるべきを信し市内香澄町字十日町口に居所を定め彫刻業を営むの外大いに子弟を集めて斯道教養の任に当たりしが後安政五年に至り故ありて下條町渋江家の人となり盆其の業を擴む其の当時製造戸数五六戸ありて県内に販売せりと云う明治七年九月其の子孫長四郎東京へ遊び斯道の名家三代目原舟月に就き彫刻術を研究して仝十年帰郷し教育的玩具製造及彫刻業に従事せり二十年東京、京都地方より鉞力製及土製等の教育玩具輸入あるに至りしを以て古来の玩具類に衰微せるも高尚なる玩具は益有望となり盛に県外へ輸出するに至れり三十四年四月山形市に開催の奥羽六県総合共進会及三十六年六月開催の第五回内国勧業博覧会へ参考品として出品せし以来益世の知る處ととなれり而して目下山形市内に玩具製造者五戸あるも教育的玩具を製作するものは渋江長四郎の一戸にして同来の玩具製造者なるも殆ど名のみにして一箇年の産額百円内外に止り何れも木地挽業の余暇木工の玩具を製造するに過ぎず而して四十四年の總産額は四千五百円に達し内奥羽六県東京、北海道、「京都及横浜商人の手を経て海外へ輸出せらるゝに至れり其の輸出額約二千五六百円なり
山形県商工案内(1912)


山形県事業と人物には「渋江長四郎」の項目がある。それから引用すると次のようになる

文化年間徳川の士に土岐備前守あり、三男虎之助友房は年十二にして幕府に仕へ十八才の時偶々御用人形師相原舟月宅を訪ひ其技の精巧なるを見て感ずるところあり天保五年遂に意を決し両刀を捨てて舟月の門に入り辛酸を嘗めること五年。その後京都に遊び偏く諸名家の門を叩き東海道を経て東北に入り当時出羽国最上郷に来たのは実に弘化三年春三月であった。而して香澄町字十日町に居を下し彫刻業を営むの傍ら大に子弟を集めて教養の任に当たり安政元年介する者ありて下條町渋江家に入る。これ渋江原周堂の起源である。渋江長四郎氏は安政元年四月に生まれて文久元年三月から明治六年迄十三年間虎之助友房について雛人形とその他の彫刻術を学び同七年九月から同十年八月まで東京に遊んで斯道の名家三代相原舟月につき彫刻術を研究し原周堂なる堂名免許を受けて郷里に帰ったのである。今や年産三萬円東北六県、東京、大阪、北海道を販路にしている。
 山形県事業と人物(1925)

 ※ここに出てくる渋江長四郎は安政元年(1954)生まれなので渋江熊吉のことと思われる。




                      

いくつかの資料からまとめると

渋江長四郎は徳川旗本の土岐備前守の三男虎之助知房として生まれた。十二歳で幕府に仕えていたが、十八歳の時御用人形師の技を見て感動し、天保五年(1834)刀を置き人形師相原月舟の門に入ったとある。弘化三年(1846)に山形に来て香住町に居を構え彫刻業を営むかたわら弟子を集め教養の任にもあたった。安政元年(1854)に下條町の渋江家に婿養子として入り渋江原周堂を襲名した。渋江長四郎は安政元年(1854)四月生まれで、文久元年(1861)から明治6年(1873)まで虎之助知房についてひな人形やその他の彫刻を学び、明治7年(1874)〜明治10年まで東京の三代相原舟月について彫刻術を学び「原周堂」の堂名(号)を受けて郷里に戻った。
                山形県商工案内(1912)と山形県事業と人物(1925)から編集
※ここに出てくる人形師や彫刻師は仏師と思われる。実際に渋江人形店では木彫の雛や人形も多く制作していたようで多くの賞も得ていたようである
※渋江人形では「原周堂」の名もよく見かけるが、これは仏師としての堂号(号)であった

 その他に「麻吉」という名が「やまがたの玩具展」(山形県立博物館、1983 山形県立博物館)に見られる。この麻吉に関しては不明であった。しかし山形市県税戸数割課額大正11年度(1922)の下條町には渋江麻吉、渋江長四郎、渋江善介、渋江長太郎、渋江文吉、渋江ハルエ、渋江武右衛門といった名が見られる。
 このことから渋江熊吉は人形師というより仏師であった可能性がある。渋江麻吉も同様である。
 山形張り子の岩城徳治郎の師として二代目の渋江熊吉という人物がいる 「手職:現代のたくみたち 続」(真壁仁、1981 やまがた散歩社)という記述がある。岩城徳治郎は明治32年(1899)に長四郎友房に弟子入りしているがこれは二代目長四郎(熊吉)だったのかもしれない。熊吉は木彫の観音像などの奉納をしているので仏師の可能性が高い。   

その時の話では昭和4年(1929)に76歳で亡くなっている。したがって生まれたのは長四郎と同じ頃になる。長四郎とは兄弟の可能性もある。
                
                  <調査続行>
山形市中心部(1912)
Aのあたりが渋江人形店の位置  Bのあたりに岩城人形店がある
山形城跡の北側に下条がある
歩兵第三十二連隊が山形城跡、両人形店に近い市立病院済生館、山形市第一小学校の位置は変わっていない



渋江長四郎考

 渋江和夫さんのお話では初代渋江長四郎、二代目彦吉で廃絶したとのことです。長四郎の子は商いをおこなっており人形制作には関わっておらず、したがって長四郎と彦吉をつなぐ人物はいないということです。おそらく前出の「房吉」は「彦吉」の間違いだと思われます。また彦吉の制作は昭和30年代初めで終わっているということです  (2003年11月22日 聞き取りより)

 2004年の岩城久太郎さんの聞き取りで、先代徳治郎さんと久太郎さんがまとめた岩城メモ「渋江人形と山形張子の歴史について」という資料をいただきました。間違いもあるかもしれないということですが、かなり詳しくまとめられています。それによれば
 渋江長四郎1853年に山形にやってきています。2代目熊吉は木彫の大黒天や観音像を奉納しています。多少は人形作りに関わったのかもしれません。彦吉は誰の子かはこの資料からははっきりしません。また、彦吉は1899年生まれですので、1965年(昭和40年)に亡くなったときは67歳とわかりました。初代長四郎はいつ亡くなったかは明記されていませんが、2代目長四郎熊吉は1929年(昭和4年)に76歳で亡くなっています。



 渋江人形は安政年間に京都から来て定住した仏師あるいは人形師の渋江長四郎が、京都の嵯峨人形の手法で張り子をつくったのがはじまりとされる。孫で二代目の彦吉が祖父から人形つくりを教わり、東京浅草で修行して新しい技法を取得してその後の渋江人形の基礎をつくった。練り物・張り子・木目込みなどの人形があった。招き猫は練り物のものが知られている。昭和40年彦吉が亡くなり渋江人形は廃絶した。


 明治34年頃。長四郎に弟子入りし、大正4年に岩城人形店を開いた岩城徳次郎が渋江人形の流れを引き継いだ。渋江の人形の中には岩城製のものもあったらしい。現在は二代目の久太郎が山形張り子として制作を続けている。なお、山形張り子には小品の「鞠猫」があるが、招き猫はない。
        ※その後、山形張り子の招き猫の型が見つかり制作されるようになった。
(青字は2003年11月24日の調査による追補分)
(赤字は2004年11月20日の調査による追補分)



背中の模様の秘密
 ところで私の持っている招き猫の背中には独特の模様があります。どう見ても猫の斑点としては不自然です。この点は以前にもねこれくと写真館廃絶招き猫で疑問としてあげたことがあります。おそらくこれは桃を図案化したものに間違いないだろうと考えています。
 それに気が付いたのは、渋江人形の座り狆を見たときです。狆の背中には見事な桃が描かれています。これを単純化するとひじょうに招き猫の背中の模様に似ているのです。

 それではなぜ桃なのか。調べてみると桃にはいろいろな霊力がありそうです。
 たとえば、神話の世界では亡き妻に会いたくて黄泉の国にやってきたイザナギノミコトが追いかけてくる醜女(しこめ=最古の鬼)たちに桃を投げつけると、桃の神通力に恐れをなしたと伝えられています。要するに桃は魔物を追い祓う霊力を持った果物なのです。それは厄払いにもつながります。
 入れ墨の図柄にも「桃の実」が好まれるのだそうです。東アジアでは共通して「桃の呪力」に対する信仰があるのだそうです。
 このような桃が持っている厄を祓う霊力と人形が結びつくことは容易に想像できます。

 現在山形張り子の岩城久太郎さんは座り狆を制作されているのでチャンスがあったら伺ってみようかと思っています。

 現在の渋江人形店の渋江和夫さんのお話では背中の桃の意味はわからないとのことです。ちょうどレジの上に置いてあった彦吉作のサルのちゃんちゃんこの背中にも桃が描かれていますので、「桃太郎からきているのではないですか」とのことでした。私が裏読みしすぎているのだろうか。

 岩城久太郎さんのお話でも背中の桃の理由はわからないとのことでした。背中に桃の描いてある犬は「桃狆子」と呼ばれているそうです。山形の果物といえばサクランボや最近では洋梨のラ・フランスが有名ですが、以前は桃の方が山形県民にとっては身近な存在だったのだそうです。そのあたりから来ているのかもしれないとのこと。なお、桃の代わりに背中に菊の花がかかれた「菊狆」もありました。

 その後、調べていく中で「桃」の吉祥文様はやはり「魔除け、子孫繁栄」の願いが込められていることがわかった。さらに「猿(去る)」が背負っているので二重の厄除けになっているようだ。渋江人形に犬や猿が多いのもそのあたりの縁起にちなんでいると思われる。
 なお、菊は「長寿」を象徴する吉祥文様とのこと。   



手に持っている開運招福は後付 渋江彦吉作


渋江長四郎の歳の謎と渋江房吉
 渋江長四郎は幕末の安政年間に京都から山形にたどり着いたことになっています。安政年間といえば1854〜1860年です。それが二十歳の時と考えると1834〜1840年生まれということになります。また孫の彦吉は昭和40年(1965)に60歳で亡くなっているので1905(あるいは1904)年生まれということになります。彦吉が15歳から祖父の長四郎に人形つくりを教わったとすれば、それは長四郎が80歳を超えていた時になります。
 しかし、「日本の土人形」俵有作編(1978)中に『渋江房吉は、練り物の渋江人形で著名だが戦前土人形も作った』とあります。手元にある少ない資料の中には初代渋江長四郎、二代目孫の渋江彦吉ということになっていますので、房吉という人物は登場しません。長四郎と彦吉の間にはかなり年齢差があるのでもしかすると房吉はその間をつなぐ人物かもしれません。もしそうなら長四郎の子であり、彦吉の父である可能性が強くなります。他にそのような記載は見かけないので、誤植ということも考えられます。はたして真実はどうなっているのでしょうか。



山形張り子には本当に招き猫はないのだろうか?
 山形張り子では招き猫は制作されていなかった。しかし2004年残されていた型の中から岐阜のNさんによって招き猫の型が見つけられた。岩城久太郎は制作したことがなかったということだったが、張り子で招き猫が覆刻され、現在も制作が続けられている。渋江家の招き猫の型は見つかっていない。
         山形張り子(旧版)へ
    山形張り子(新版) 編集中
 さらに最近になって岩城家の招き猫と同じ型の人形が見つかった。おそらく練り物ではないかと思われる。これで彩色の様子も判明した。ただ岩城家で制作されたのか渋江家で制作されたのかは不明であるが、岩城家の可能性が高いと思っている。
                 


渋江人形の招き猫
 現在知られている渋江人形の招き猫は何れも小型のものである。

 
右手上げの正面座り招き猫
彩色は胡粉の下地以外は
赤、群青、黒とシンプル
目は上まぶたのみ描かれる
爪と耳は赤で描かれる
赤い首玉に群青の前垂れ
赤い首玉には白い斑点模様の中に赤の点
前垂れにも首玉と同様の彩色の三点模様
背中の黒い斑模様が特徴的
ひげと尾はない
背中の黒い斑点の描き方に特徴がある
ひげと尾はない

高さ73mm×横50mm×奥行52mm




右手挙げの横座り招き猫
彩色は胡粉の下地以外は
赤、群青、黒とシンプル
微笑んだような目は単純化されている
爪と耳は赤で描かれる
赤い首玉に群青の前垂れ
前垂れには白い斑点模様
背中の黒い斑模様が特徴的
ひげと尾はない
底部には串を刺した穴はない


高さ70mm×横47mm×奥行39mm

 

 荒川千尋・板東寛二
(1999)より


下の個体と
傷などから同じ猫であることがわかる
高さ15cmとあるが間違いか?
 
 
この6点は正式な許可を得ていません
ご連絡いただければ
掲載許可の申請をいたします
8cm×4.5cm
彩色は上の私の所蔵する2点と比較すると彩色はかなり異なり、洗練された感じがする
目の描き方は似ているが裏の桃の柄はない
彦吉が東京浅草で修行した後の作品かもしれない
 





渋江人形調査隊(2003年11月22日取材)
 2003年に得意のアポなし突撃聞き取りをおこないました。渋江人形は廃絶しましたが、現在も渋江人形店は営業していることがわかりました。しかも岩城人形店とは近所です。
 福島県の美術館見学の後、山形市内に着いたのは午後の5時をすぎていました。岩城人形店は残念ながらしまっていました。
 そしていよいよ本命の「人形のしぶえ」(渋江人形店)です。二店舗あり本店は市内の旅篭町(はたごまち)にあります。現在は日本人形や博多人形、あるいは押絵や木目込人形の布地などを扱っています。
 「人形のしぶえ」店主渋江和夫さんに伺うと渋江人形2代目の渋江彦吉さんは「私の父親です」という答えが返ってきました。父親の彦吉さんが制作するのを子供の頃見てはいたが和夫さん自身は制作には関わっていなかったということです。したがって彦吉さんが亡くなり渋江人形は廃絶してしまった(実際には亡くなるかなり前に制作は休止していたようです)ということになります。また、彦吉さんの父親(和夫さんの祖父)もまったく人形制作はおこなっていなかったとのことです。和夫さんは張り子や練り物の制作はまったくやっていなかったのですが、人形店を引き継ぎ、やはり職人の血が流れているのか現在は押し絵などの制作をやっているとのことです。
 私の持っている渋江の招き猫の実物を見ていただいたのですが、「制作しているのを見ていただけなので、招き猫を制作していたかどうか記憶にない」ということです。残念です。しかし、彦吉さんがあぶらののりきっていた頃の作品はすばらしいものだったそうです。その制作も昭和30年代の早い時期に終焉を迎え、渋江人形は廃絶してしまいました。人形を挿しておく藁つとなどもあったそうですが、大部分は整理されてしまったとのことです。それでも段ボール箱に3箱ほどの木型や大型のダルマの木型などその一部は保存されています。特にダルマの木型は桐でできており、しっかり彫り込まれたすばらしいものです。あまり数が制作されなかったようで、型を取り出すための傷もほとんどありませんでした。招き猫の型が見つかればどのような招き猫が制作されていたのかその一端がわかるのですが。
 いろいろお話を伺う中で渋江人形の跡を継げなかったことに対する申し訳なさそうな言葉が印象的でした。しかし戦中戦後から高度成長へ向かう時代は、花巻人形をはじめとして、今はもてはやされている多くの郷土玩具にとっては苦難の時代でした。そのような中で諸事情により廃絶していったのは仕方がなかったことかもしれません。店頭の2階部分に描かれている首人形を見て、かつて山形市内で渋江人形という郷土玩具が制作されていたことを知る人は地元でもはたしてどのくらいいるのでしょうか。
 いろいろお話を伺った後、かなり前に職人さんに復元してもらったという『月山玉兎』をいただき、帰路につきました。
 渋江人形のことで訪ねてきた人も何年ぶりかということです。だんだん人の記憶から遠ざかっていく渋江人形ですが、ぜひ何らかの形でその一部だけでもこれから記録していきたいと思います。         (2003年11月24日 追補)

 山形県立博物館に渋江人形の木型50点ほどが1972年に寄附されているが、その中に招き猫の型はない。倉庫にまだ型が保存されているらしいが、その中に招き猫の型があるかもしれない。

「人形のしぶえ」本店 復元「月山玉兎」
月山玉兎復元品の5方向画像  
渋江人形「月山玉兎」
復元品
 彦吉作ダルマの木型  手前は100円硬貨


渋江人形店とその後  
山形市旅篭町2−8−28にあった
「人形のしぶえ」(渋江人形店本店)

岩城人形店を訪問した際に撮影(2004)


2011年
営業している人形店
看板テントの歌舞伎幕のような下地は変わらないが
訪問した当時とデザインは異なり、
首人形の絵はなくなっている
2014年
傷んでいた正面の看板テントが新しくなっていた
シャッターを閉めているのは店主の和夫さんか?
2018年
このころから営業しているのか?
という状態になっていた
2019年
すでに閉店したのか、
脇の看板に政党のポスターが貼られている
2022年
看板も外され廃業してしまったようである
これまで看板テントで見えなかった
建物の装飾はレトロなたたずまいだった

2024年
さらにこの年になると
廃屋のような状態になってしまった
人形店も終焉を迎えたようである
ひな人形を始め多くの人形を手がけていた
「教育玩具」については
山形市史別巻2(1976)で
板垣英夫氏により次のように説明されている
「山形の遊び具は自然玩具にいたるまで
親から子へ作る技が伝えられ、
親子のつながりが深いものであった
郷土玩具は信仰・民間伝承などの
縁起を取り上げ、玩具を通して、
親が子へ習俗を伝えようとしたものである」





『山形市商工案内 』
山形実業新聞社、大正元年(1912)
国立国会図書館デジタルコレクションより
これは昭和の改元記念に出版された
銘鑑に掲載されている渋江人形店のページ
このころこの手の本はよく出版された

製造所が渋江長四郎で本店とあり
販売は渋江人形店とある
最近の「人形のしぶえ」は
渋江人形本店とあったが
これは販売所の方かもしれない
当時の広告を見ると製造所と販売所が
併記されているのでその名残の可能性がある
2003年に訪問したときの記録にも
2店舗あると書いている



屋号はわからないが「丸長」は
長四郎に由来すると思われる
なお、製作所の下條町(下条町)は
霞城公園(山形城跡)の北側に当たる






『奥羽六県営業銘鑑 : 改元記念』,
宣伝時代社,昭和3年(1928)
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/1106962
上の画像の拡大
はあまり鮮明でないが
下段、左から「月山玉兎」、「犬」、
右の3点は童子ものか?

 人形店の店主であった渋江和夫さんもかなり高齢になっていたはずである。昭和30年代にはすでに渋江人形は廃絶していたが、博物館に寄贈後、まだ残っていた型などはどうなったのだろうか?山形県立博物館に追加寄贈されたのだろうか?なお、山形県立博物館に寄贈された渋江人形の一部(主に木型)は下記のデータベースから検索できる。

 渋江人形に関して現地に行ってからすでに20年以上経過してしまった。その間にネットの発達により当時は分からなかったことも検索できるようになってきた。国会図書館のデジタル画像にアクセスできるようになったことも大きい。
 下記の「BEKOMOCHI]さんのブログ「猪口と鉱物あつめ」では詳しく考察しており、掲載されている文献も大いに参考となった。



 渋江人形 「BEKOMOCHI」さんのブログ「猪口と鉱物あつめ」(2023)
 山形県立博物館収蔵品データベース 民俗資料「渋江人形」







参考文献   日本の土人形 (俵有作、1978 文化出版局)
         招き猫尽くし (荒川千尋・板東寛二、1999 私家版)
         全国郷土玩具ガイド1 (畑野栄三、1992 婦女界出版社)
         東北の玩具  ( 仙台鉄道局編纂、1938 日本旅行協会)
         奥羽六県営業銘鑑:改元記念(1928 宣伝時代社)
         山形市商工案内(山形実業新聞社、1912 山形実業新聞社)
         山形県事業と人物(新山形社、1925 新山形社)
         山形市史 別巻2(山形市市史編纂委員会、1976 山形市市史編纂委員会)
         手職:現代のたくみたち 続」(真壁仁、1981 やまがた散歩社)
         やまがたの玩具展(山形県立博物館、1983 山形県立博物館)
         山形市県税戸数割課額大正11年度(五十嵐幸吉。1922)