酒田土人形
種類:土人形
制作地:山形県酒田市
現制作者:廃絶
酒田土人形は江戸時代末期、鋳物師の初代助左衛門によって創始されたとされる。人形作りのきっかけははっきりしないが、鋳物の型を作るのに使われた川の堆積粘土をもとに木型抜きで酒田土人形は始まったとさる。創始当時の人形は木型抜きで焼かれておらず、植物染料による彩色がほどこされており、鵜渡川原土人形(うどがわら)とよばれる。その後大正期に入り他からの大型の型の移入により、その後に続く酒田土人形ができあがっていった。
助左衛門の子、長男助蔵・次男孝之助・三男周蔵はそれぞれ人形制作を行った。その中でも明治20年代に分家した孝之助(2代目)は人形制作に専念し、後の酒田土人形を継承するに至った。このころから伏見・古博多・長浜・鶴岡といった型が移入されその後の酒田人形の基礎となっていった。本家では本業の鋳物、鉄工所の経営に専念し人形作りから離れていった。
その後、孝之助の長男重助(3代目)、とその妻梅代の頃には瑞浪の型が移入された。重助の没後、梅代と長女の文子(4代目)にひきつがれたが、平成4年文子が没し、酒田土人形は廃絶した。
※最近、中野市の土人形資料館で大石やゑ作の酒田土人形を見かけた。詳細はわからないが『鵜渡川原土人形(日本郷土人形研究会)』の作者系図を見ると大石文子さんの流れでなく、本家の助蔵の流れをくむ方のようである。
鵜渡川原人形は本家、分家ともに受け継がれてきたが、分家の大石文子さんが平成3年に亡くなり孝之助の流れをくむ酒田土人形は廃絶した。また本家助蔵の流れをくむ4代目の大石定佑さんも平成7年に製作を中止し、本家筋の土人形も実質的に廃絶してしまった。しかし現在は、鵜渡川原人形保存会が定佑さんの妻大石やゑさん(鵜渡川原人形保存会顧問)の指導と協力のもとに、人形の製作と保存活動を続けているそうです。(2003年11月2日 追補)
現在、入手した招き猫はこの1点だけで、他の型があるのかどうかは不明である。またこの方が他から持ち込まれたのか、オリジナルであるのかも不明である。
これ以外に入手先の骨董屋が「酒田だ」といっていたものが1点ありますが、果たして本当に酒田土人形なのかどうかはわかりません。
この招き猫は一部破損していたものを修復したものです。その過程は『義足の招き猫』をご覧ください。 横110mm×奥行145mm×高さ185mm 石英砂の混ざったきわめて荒い土を焼いて作ってあり、重量感がある。底はわずかにへこみ、中央に穴が開いている。赤の縮緬に金色の鈴がついた首輪をつけている。黒の斑点は刷毛目で毛並みを表している。 |
この招き猫は右前足の先端が欠損していたため、格安で入手したものです。写真ではほとんどわかりませんが、自分で補修しました。この人形の裏には45円のスタンプが押してあります。酒田土人形のスタンプは押されていないのでおそらく販売店で押したのでしょう。この価格から考えるとかなり以前の作品であることが予想できます。昭和38年に3代目重吉が没しているので、その前の作品かもしれません。4代目大石文子さんは幼い頃から母梅代さんと一緒に3代目を手伝って制作されていたということです。酒田土人形の女ものは梅代さんが目入れをしていたということなのでこの人形も梅代さんか文子さんの筆によるものかもしれません。
目が印象的な招き猫ですが、横からよく見ると眼孔の上(眉のあたり)から目にかけてや鼻のラインがひじょうに写実的に表現されています。眼球も平面ではなく立体的です。猫というよりむしろ人間に近い顔つきかもしれません。おそらく郷土玩具の招き猫の中では屈指の色っぽさかもしれません。こんな魅力的な招き猫が廃絶してしまったのは全く惜しいことです。 =^・^=
はたして酒田土人形?
横32mm×奥行40mm×高さ65mm 小さいがしっかり焼き固められ、重量感がある。底はへこみ、小さな串穴がある。それそれの耳にも串穴がある。目は黄色で瞳は針状に描かれている。全体にニス塗りの光沢がある。 |
正直なところ、はたして酒田土人形なのかな?というのが私の感想です。あまりに招き猫以外の人形も含め、他の酒田土人形と雰囲気が違います。また土も異なります。正体はいったい何でしょうか?
参考文献 鵜渡川原土人形 日本郷土人形研究会 (平7)
日本の土人形 俵有作 編著 (昭53 文化出版局)