三次人形        

三次人形
 種類:土人形
 制作地:広島県三次市十日市町 
 現制作者:丸本みつ子(7代目)  窯元 華園窯
 

初代  丸本儀十郎   1847-1915 弘化 4年-大正4年 
二代目 丸木熊市  1876-1934 明治 9年-昭和9年
三代目 丸本藤一  1905- ?  明治38年- ?
四代目 丸本十九瓶(とくべい) 〔藤一の弟〕  1907-1965 明治40年-昭和40年
五代目 丸本昌子〔十九瓶の妻  1917- ? 明治40年- ?
六代目 丸本(たかし)  1944-2021 昭和19年-令和3年
七代目 丸本みつ子〔垚の妻〕  1950?- 昭和25年?-


2019年の中野ひな市
全国土人形即売会の会場で
作品に銘を入れる丸本垚さん
即売会見学中の丸本さんと
中湯川人形の青柳さん(左)



 三次人形の源流となっている宮の峡(みやのかい)人形は寛永年間に藩主の浅野長治が江戸浅草の人形師森喜三郎を招き、宮の峡で人形を焼かせたのが宮の峡人形の始まりとされている。ただし人形や文献など確たる資料は残されていないという。
 近世になり、宮の峡人形を制作をしていた大崎家では、初代大崎忠右衛門(1814-1873)、二代目の忠右衛門三女キサ(1847-1918)、さらにキサの長女三代目ノブ(1861-1915)と引き継がれていった。ノブと丸本儀十郎の間にできた子、儀一(1883-1965)はは宮の峡人形最後の作者となった。
 一方、大崎家で人形の製法を学んだ丸本儀十郎は十日市に移り土人形制作を始めた。研究熱心で他の産地の人形も研究して十日市土人形として発展させた。これが現在の丸本家の三次人形の創始となった。古い製法に固持したした宮の峡人形はやがて十日町土人形との競争で廃れ、大正初期には廃絶してしまった。宮の峡人形の廃絶と共に丸本家ではその型を譲り受けたともいわれるがその事実はなく埋められ廃棄されてしまったようである(郷土人形図譜 1994)。
 丸本家では十日市人形として制作を続けた。現在の三次人形に添付されている説明書きには、第一次・二次世界大戦の時には制作禁止の憂き目を見たとあり、昭和17年(1942)には制作を中断することとなった。
 大戦後の昭和31年(1956)に三代目藤一の了承を得て、記者をしていた弟の四代目丸本十九瓶が復活させた。十日町人形は戦後の市町村合併により三次市に編入されたのを機にかつての本家である三次人形と称するようになった。十九瓶は50代で亡くなったため、妻の昌子が五代目を継いだ。その後、子の垚が六代目を継いだ。2021年3月に六代目丸本垚の急逝により三次人形の存続が危惧されたが丸本垚の妻丸本みつ子により7代目が継承された・垚とみつ子の子も人形制作の修行しているようだ。
 
 宮の峡人形は長浜人形の影響を強く受けていた。また初代の儀十郎や二代目熊市は研究熱心で博多や長浜などの土人形を研究した。博多人形師の指導を受けて描法を工夫して新しい型もおこし、時代にあった土人形を制作していった。独自の膠と磨きによる光沢を持つ別名「光人形」は両名によって完成されたものとされている。
 三次人形は5月から10月に型抜き素焼き、11月~翌4月にかけて彩色と1年1行程で制作されている。。したがって品切れになるとまた1年待たなくてはならない。型の種類も多く、あまり制作していない型もある。招き猫も型は以前からあったがあまり制作されていなかった型のようだ。

 
   「三次人形6代目窯元丸本さん死去 関係者ら人柄しのぶ」 中國新聞デジタル 2022年4月22日号(リンクが切れているときはこちらのPDFファイルへ

2023年中野ひな市 2022年中野ひな市
今年(2023)の中野ひな市で丸本みつ子に七代目が継承されたことを知ったが、
昨年のひな市ではすでに丸本みつ子名で出品されていた 



 三次人形には津屋崎人形と同じような型の招き猫がある。かなり前に問い合わせたことがあったが、制作している時期にまた連絡してください下さいと言うことでそれっきりになっていた。この猫はあまり制作していなかったようだ。最近になって三次人形が三次市のふるさと納税の返礼品になっておりその中に招き猫があることを知った。そこで特約店となっている玩具店に問い合わせて入手となった次第である。
 長浜人形にも型は少し異なるが似たような形態の招き猫が存在する。前記のように長浜や博多の影響を受けているのでいずれにせよその流れをくんでいるのであろう。

三次人形添付説明書


  日本土人形資料館リーフレット 三次人形へ  


招き猫(大)   
やや体型が違う
撮影の向きの問題かと思ったが
そうではないようだ
左の方がぽっちゃりタイプ

模様の入らない白猫は珍しい
古くから白猫だったのかは不明
目は黄色で金の縁取り、黒の瞳
首回りに首玉や鈴の彫りはない
首には編んだ首玉が結ばれている
それぞれ色違いの首玉を巻く

 高さ140mm×横76mm×奥行86mm 
尻尾はあるが彩色されていない
尻尾の形態も少し異なる
右の方がやや細身
 右の方が奥行きがある
底には空気抜きの穴がある
参考資料
左 津屋崎人形(原田誠作)
 高さ138mm×横72mm×奥行81mm 

津屋崎人形とほぼ同じ型
(特にピンクの首玉の方)、

まだアップしていないが
長浜人形(日下家)と
似た
形態をしている
   


招き猫(小  
左手挙げ 尻尾は彩色されていない
緑の首玉に金の鈴 挙げている左手は太い

大と同じく白猫だが緑の首玉をつける
首玉には金の鈴がつく
黒い肉球と肉球および爪のあたりにわずかに朱が入る
そこには空気抜きの穴がある

高さ122mm×横65mm×奥行80mm 
空気抜きの穴


招き猫パーツ  
尻尾は彩色されていないが存在が確認できる(上、左右とも同じ人形)
招き猫(大)だが尻尾ははっきりしない 津屋崎人形(原田誠)
眉は描かれていない 目は金の縁取り 黒い肉球に朱のぼかし
今回招き猫(大)を2体購入したがわずかに形態が異なる
体型もやや異なる
長い尻尾が前まで伸びているがそれがはっきりするものと不明瞭なもの
型は複数あるようだ


座り猫   
豪華な前垂れと虎柄の尻尾 大きな黒い斑
首玉には金の鈴が3個つく 背面の彩色なし
伏見タイプの白に黒の斑の猫
豪華な首玉と前垂れをつける
首玉には金の鈴が3個つく
裏面は彩色されていない
裏面には足の陰影はあるが彩色はない
尻尾は虎柄

高さ166mm×横170mm×奥行106mm 
空気抜きの穴が見える
郷土玩具図説第七巻(鈴木常雄、1988覆刻)より
「初代儀十郎の作といわれている
大きな耳を総体に赤く染めた手法がすばらしい
数色を取り混ぜた首掛けもすばらしい」とある

顔の黒い斑なども含めて
当時と彩色の手法も変わっていないようだ
 


三次?
頬の黒い斑はない
厚み(奥行き)はない 背面の前垂れは彩色なし

伏見系の猫には間違いないが、三次よりやや小ぶりで奥行きもない
頬の黒い斑もない
前垂れの枚数も多いが彩色は似る
裏にも彩色されていない前垂れの彫りがある
尻尾に重なるようにしてある黒い斑もない
中に小さなガラのようなものが入っている(それほど大きくなさそう)
人形は薄手のようで見かけ以上に軽い
最初は三次?と考え、購入したがそうではなさそうだ
それではどこ?

高さ124mm×横145mm×奥行68mm


年賀切手に採用された三次人形  
 平成21年(2009)
年賀切手

80円寝牛乗り天神
80円寄付金付き
立ち牛乗り天神
平成21年(2009)
 お年玉年賀切手小型シート 



読売新聞 ひろしま県民情報2022年2月16日  828号より
三次市内にある「松本玩具店」が販売の特約店になっているようだ



   長浜人形(日下家)へ            (工事中)
   津屋崎人形(筑前津屋崎人形巧房)へ (工事中)




   「受け継がれる 職人の技 三次人形」 広島県公式チャンネル 広島県映像ライブラリー(平成22年撮影・制作)

   「みよし観光ソムリエ 三次人形」  (広島ホームテレビ)




参考文献
郷土人形図譜「宮の峡人形」 (日本郷土人形研究会、1994 郷土人形図譜第Ⅰ期第5号)
招き猫尽くし (荒川千尋・板東寛司、1999 私家版)
日本郷土玩具 西の部(武井武雄、1930 地平社書房)
「鯛車 猫」(鈴木常雄、1972 私家版)
郷土玩具図説第七巻(鈴木常雄、1988覆刻 村田書店)
全国郷土玩具ガイド3(畑野栄三、1992 婦女界出版社)
おもちゃ通信200号(平田嘉一、1996 全国郷土玩具友の会近畿支部)
招き猫博覧会(荒川千尋・板東寛二、2001 白石書店)
日本の土人形(俵有作、1978 文化出版局)
「子どもの成長と幸せを託して 三次人形」(日本土人形土人形資料館リーフレット)