川越張り子(川越だるま)
種類:紙張り子
制作地:埼玉県川越市
現制作者:矢嶋美夏
川越で明治時代より張り子達磨を制作していたのは続木家一軒のみだった。「川越だるま」あるいは川越大師喜多院のだるま市で売られていたので「大師だるま」と呼ばれていた。喜多院の門前近くに住んでいた初代続木常太郎によって明治40年ころ制作が始まったといわれている。しかしそれ以前の江戸末期から続木家では武州だるまを仕入れて喜多院のだるま市で販売していた。喜多院のだるま市に出店していた箱根ヶ崎のだるま屋(多摩張り子)が廃業することを知り道具や型を譲り受け技術も習得して自ら制作を始めた。もともと続木家の本業は農業で冬場の農閑期に制作をしていた。二代目勇三郎が父を手伝いだるま作りを継承した。しかし昭和45年(1970)ころ廃業するに至った。
川越だるまは大小15種類が制作された。制作していたのは一軒のみで、自ら販売していたので特に大きさなどのよる区分の名称はなかった。達磨の制作は農作業が終わった12月から1月までの2ヶ月間で販売も1月・2月のだるま市2日間(現在は1日)のみだったので制作数も多くはなかった。張り子紙は小川町のものが用いられた(小川張り子を参照)。喜多院の世話人をしていたので条件のよい場所で販売でき、売れ残っても当日買えなかった人が自宅まで買いに来てほとんど売れてしまったという。
川越だるまは顔の脇の耳あたりに金で「寿」、眉毛が黒で「寿}と書いてあるのが特徴であった。しかしその川越だるまも昭和45年(1970)に廃業してしまった(昭和50年という記載もある)が周囲の強い要望もあり平成2年(1990)に制作を再開した。
その後、現在の制作者である矢嶋美夏が弟子入りして型などを受け継ぎ4代目として制作を始め、現在に至っている。
※比較的最近、荒井良により勅使河原型を引き継いだ”川越張り子”をが制作されている。川越張り子の名称に関してはどのような扱いになっているかは不明である。ここでは川越張り子の名称を用いるが、伝統的な「川越だるま」あるいは「大師だるま」の川越張り子という表現で区別することにした。
初代 | 続木常太郎 | 1872− | 明治5年ー |
二代目 | 続木勇三郎 | 1903− | 明治36年ー |
三代目 | 続木徳一 | 1931− | 昭和6年− |
四代目 | 矢嶋美夏 | 1984− | 昭和59年− |
川越だるまの招き猫 | |
川越だるまを抱く | 黒の斑に金の縁取り |
右手挙げ | 黒で描かれた尻尾 |
続木徳一作 いつどこで購入したかは失念 東急の郷土玩具即売会の可能性はある 下の2003年の招き猫まつりの作品とは 型や目の描き方が異なる 右手挙げで川越だるまを抱く 黄色の首玉 黒い斑に金の縁取り 黒で尻尾が描かれている 黄色い鼻には赤で鼻の穴が描かれる 高さ212mm×横128mm×奥行137mm |
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土の土台シキが付く | |
耳のあたりの金の「寿」 | 眉毛の黒の「寿」 |
2003年に伊勢招き猫まつりで(続木徳一作) |
4代目矢嶋美夏ブログ 続木家最初の訪問? (2008)
技術途絶えた「川越だるま」 女性職人が復活させる 川越経済新聞(2015)
小江戸鏡山酒造日記 復活、川越だるま! (2015)
参考文献
招き猫尽くし (荒川千尋・板東寛司、1999 私家版)
日本郷土玩具 東の部(武井武雄、1930 地平社書房)
全国郷土玩具ガイド2(畑野栄三、1992 婦女界出版社)
おもちゃ通信200号(平田嘉一、1996 全国郷土玩具友の会近畿支部)
埼玉の張り子(大久保茂、1976 埼玉県立博物館紀要3)