光張り子
種類:張り子(大木伊三郎系・大木三郎系)
制作地:千葉県匝瑳郡光町
現制作者:廃絶
光張り子の招き猫は親戚関係にある初代大木伊三郎の系統とその甥の大木三郎の系統の2種類は作られていた。
大木伊三郎の系統は常滑タイプのふっくらした張り子であった。大木三郎の系統は高崎タイプの張り子であった。大木三郎は伊三郎を手伝ったこともあるようだが、ごく近くで全く異なる型を使って2種類の招き猫が作られていたわけである。(以下、大木伊三郎家と大木三郎家と表記して区別する)
大木伊三郎家の招き猫は丁寧な彩色で右手上げのみであった。
大木三郎家の招き猫は大きさが4種類ほどあった。いちばん大きなものは高さ50cmほどあった。またもっとも大型のもの以外は右手上げと左手上げがあった。いちばん大型のものは小判を抱いており、恵比寿抱えは中型の1種のみである。
大木家は両家とも仏師のかたわら、張り子製作もおこなっていた。大木伊三郎家は新兵衛、初代伊三郎、二代目伊三郎と続いた。大木三郎家は初代三郎、二代目忠次、三代目良一と仏師を受け継いだが、10年ほど前に二代目忠次が亡くなるとともに光張り子の招き猫は廃絶した。現在も大木三郎家では光張り子が販売されているが、これは大木三郎家にある木型を元に外部制作されているものであるという。
両家とも光張り子の達磨の製作あるいは販売は続けられている。
東陽張り子、橋場張り子という呼び方をする場合もあるようである。
大木伊三郎家の招き猫
私の所有しているこの張り子は後にも述べているように「郷土玩具1 紙」(1971)のp.98に掲載されているものの現物です。最初は気が付かなかったのですが胡粉のあわや筆の跡がすべて一致しているのに気が付き現物だとわかりました。 著名な著者による本ですが、いったい誰の所有だったのか興味がわきます。回り回って私の所にやってきたのも何かの縁だと思います。 またこの招き猫の若い頃の姿?がアルバムの中の写真のように本を開くと見ることができるのも感激です。 高さ225mm×横145mm×奥行145mm |
大木三郎家の招き猫 (「招き猫尽くし」より著者の承諾を得て掲載)
大木三郎家の招き猫で恵比寿顔を抱えているのはこのサイズだけです。恵比寿の部分は立体化されているので、最初からこのスタイルを想定して型が作られたものと思われます。 高さ 27cm |
光張り子調査隊
光張り子は最近の郷土玩具の本にはほとんどふれられていません。少し前の本で断片的な情報が得られるだけです。以前から気にはなっていたものの、今回現品を入手したことから俄然調査意欲がわいてきました。
手元にある書籍を調べてみると、どれも記載されていることは同じようなことです。大きな疑問は今回入手した常滑風タイプとこれとは別に高崎タイプがあることです。また大木忠次という人物も『招き猫尽くし』に登場するだけで謎です。
ところで最近のインターネットの情報量には目を見はるものがあります。加州猫寺の調査でもふれたようにこの3・4年での情報量の違いは格段の差があります。今回もインターネットが情報収集が調査の要にありました。もっとも検索には今まで調査をしてきた勘とも言うべきものがあります。
光り張り子とは
手元にあった文献から光張り子に関する内容を引用してみると、
1 光張り子 大木忠次作 千葉県匝瑳郡で作られていた。八日市場張り子とも言う。大木家は明治10年創業。
全体として豊岡張り子を模して作られているが、お腹の恵比寿さまの顔の描き方などが簡略化されている。 廃絶
「招き猫づくし」(1999)より引用
2 招き猫
招き猫は玩具と言うより、むしろ商売繁盛の縁起物である。ところによっては、ねずみ除けのお守りとして売られているそうである。
産地としては、達磨で有名な群馬県豊岡村周辺が知られているが、房総でも製作されていたという事実がある。
成田の獅子頭の作者、大木伊三郎の甥にあたる光町橋場の大木三郎による招き猫が作られていたわけである。
もちろん、張り子で作られたもので、土製とは感じがちがいなんとなく表面がでこぼこしている。焼き物の猫を原型として張ったという。丹念に彩色されている。
ふつう、左手をあげているものと、右手をあげているものと両方あるそうだが、大木製の招き猫は左手をあげている。 あいにく、売行不振のために製作を一回かぎりでやめてしまった。しかし、もともと、張り子は、土人形にくらべて、安く量産できるので、江戸期にはいってから、土人形についで盛んに作られるようになったといわれている。仕事は、紙張り、胡粉塗り、そして仕上げの彩色に大別される。
招き猫の表面がいくら、でこぼこしているとはいえ、やはり、張り子特有のふっくらした持ち味が生きている。
「房総の郷土玩具」(1976)より引用
3 成田の獅子頭
(略)
房総では、戦前、成田山の不動尊で獅子頭が売られていた。
製作者は、東陽の張り子作者の大木伊三郎である。彼は本業が仏具師で、季節になると店頭に仏具と達磨をいっしょに陳列したという。
東陽の張り子は、伊三郎の先代、新兵衛のときに始めており、甥の大木三郎も仏具と達磨を作っているので、いわば二子三代の張り子屋ともいえる。
東陽達磨の特徴は、丸々とした形態に、腹部に寿、福、大漁、家内安全などを記していることである。戦前には、張り子面、戦後になると招き猫なども製作していたという。
販路は小見川、片貝、成田山の不動尊。また、大漁の文字がはいった達磨は、九十九里沿岸の漁師に望まれたとのこと。
東陽の張り子の中でも、獅子頭だけは、成田の不動尊で売られていることが有名だったせいか、玩具の愛好者のあいだでは、成田の獅子頭として別格あつかいされている。
「房総の郷土玩具」(1976)より引用
4 東陽の張子
横芝駅を下車して橋を渡ると東陽村に入る。橋場区に大木伊三郎の家がある。仏具師だが店頭には沢山の位牌の中に達磨や前掲成田の獅子頭を混じえて陳列してある。伊三郎は先代新兵衛の業を継承しているが、作る達磨は七種類位、おかめ達磨もある。 (略)
この外には面なども三、四種張るが伊三郎の甥大木三郎も仏師でその生業の傍ら伊三郎と共に張子の製作も行う。彼等の製作品の販路は主として小見川町、片貝町である。
「房総葛篭」(1938) 「郷土玩具図説一巻」(1980) より引用
5 東陽町の張子
昭和十二年六月十九日、晴。総武線横芝駅下車。左手に折れて行くと橋一つが境となって東陽町橋場に入る。ふっくりした県道の傍らに金文字の入った硝子戸の大きな家で大木伊三郎の店がある。間口所せましとありったけの位牌が鈍いいやな金色に光っている。その間その間に達磨や獅子頭が、少しずついゝかげんに飾ってある。店で二、三度奥へ呼ぶと、伊三郎が前垂れの仕事着に墨の筆を持ったまゝ出てくる。
黒い縮れた髪にいやに白っぽい顔をしている。すぐに調査にかかってみる。大木伊三郎の先代新兵衛が四、五十年前に器用さから祭礼用の獅子頭を作ったが、子供にせがまれて玩具用の獅子頭を張ったのがここの張りの創まりだという。一番五寸、二番四寸、三番三寸という種類がある。
達磨は川越のものを宗として大小七種類位を張るが、丸形以外には特徴がない。おかめ達磨もごくまずい面相を併作する。腹に書く文字は福、寿等の目出度書きだが、漁場に販路をもつので大漁などと書いているなどは習俗上面白い。
伊三郎はこのほか、お面も数種張ったという。なお張子の製作時期になると甥の三郎も一しょになって張るのを手伝う。私は書いている手帳をおいて、正面にある一番大きな達磨を何の気もなくぐっと睨みつけてみた。
「鯛提灯5」(1939) 「郷土玩具図説一巻」(1980) より引用
6 招き猫(千葉県・光)
招き猫は目無しだるまと一緒に、群馬県高崎市で作られているものが多いが、千葉県光町のものも同型のもの。 (略)
「郷土玩具1 紙」(1971)より引用
これらの中で1、2,6の文献には写真がある。また他の文献には達磨の図が添えられている。ちなみに私が入手した招き猫は「郷土玩具1 紙」(1971)のp.98に掲載されているものの現物である。
上記の内容をもとにインターネットで検索すると、それらしい二軒が見つかりました。
今回はメールアドレスのわかった一軒に確認をとると「三郎は祖父で、伊三郎は本家です」と確認がとれました。そのようなことから訪問して、お話を伺うこととなりました。検索から訪問までわずか3日でした。
いよいよ訪問 2003年10月11日(土)
総武本線横芝駅の南口から駅前の通りを八日市場方面に歩いていくと、川を渡ります。そして県道108号線を海岸方向に進んでいくと、やがて右手に仏具店が見えてきます。光張り子の看板も見えます。さっそく店内でお話を伺うことになりました。
今の場所に大木三郎が移って仏具店を開いたのが昭和元年とのこと。その後二代目の忠次さんと続き、現在の店主で仏師の大木良一さんは三代目にあたります。残念ながら招き猫の制作は先代の忠次さんが亡くなられた10年ほど前で終わってしまったとのことでした。現在も買い換えのお客さんの要望で達磨だけは家にある型を使って外注で制作し、販売しているということです。良一さんも招き猫の制作は手伝ったことがあるとのことです。
大木三郎系の招き猫は高崎張り子(富岡張り子)に似ています。おそらく骨董市に出ていてもよほど知っている業者以外は高崎張り子として扱ってしまうのではないかと思います。
現在残っている招き猫の型を見せていただきましたが、約4種類ほどの大きさがあります。一番大きなものは50cm近くあったということです。残念ながら現在この大型の木型は残っていないということです。大型は商売用と販路が特化されているので上げている手は1種類(どちらかは忘れてしまったとのこと)のみで、小判抱きだったとのことです。それ以外に15cm程度の小型のものから27cm程度の中型のものまで何種類かあり、これらは右手上げと左手あげの2種類がありました。「招き猫尽くし」に掲載されている27cmのものは中型にあたります。恵比寿抱きはこの大きさの型のみとのことです。 中型でもこれよりもう一回り小さなものもあります。一番小型は15cmほどのものです。なお、大型と中型は高崎と同じで手は別に作るため型から切り取ってあります。小型の手は体と一体化しています。
光り張り子は仕上がると高崎張り子に似ていますが、型だけ見ていると光張り子の招き猫の姿と結びつきません。高崎張り子は彩色段階で書き込んでいくので型には凹凸が少ないのですが、光張り子の型は紙張りしてしまえばわからなくなる爪や目までしっかり彫り込んであります。この型だけで一つの作品として完成しています。やはりそのあたりは仏師としてのこだわりなのでしょうか。なお、これらの型は初代の大石三郎によって制作されたということです。
「光張り子」4種類の木型 | 参考写真:高崎張り子の型 |
4種類の木型
もっとも小型の木型(高さ14cm) 高さ144mm×横86mm×奥行80mm
裏面背中の右よりに頭部から背中にかけて(Y字型)に付いている無数の傷は紙張り、乾燥後、木型を取り出すためにY字型に刃物で切った痕
達磨に比べると招き猫は需要が少なく、頼まれて数がまとまれば作ったそうでほとんど作り置きはなかったようです。また形が複雑で手間もかかり、さらに色が白のため達磨を作っていると汚れやすく、作り置きしておくとだんだんほこりなどがついて汚れてくるのも製作数が少なかった理由の一つのようです。
販路は一部を市などの出す以外はほとんどは近辺の地域のお得意さんなどを中心に売り歩くことが多かったそうです。それでも達磨は売れる地域と売れない地域があるそうで、招き猫になるとさらに需要は限られたようです。
先の文献によれば、成田山不動尊や小見川町、片貝町とあります。大漁の文字の入った達磨などは海に近い片貝町などが販路になっていたのでしょう。
なお、招き猫の置き方は店によって、1年で汚れて買い換えられたり、いくつも歴代の招き猫が並べてあったりと様々だったとのことです。
いずれにせよ商売関係の需要が主で光張り子の招き猫は販路も狭く、製作数もあまり多くなかった上に、張り子の縁起物の運命として達磨とともに役目が終わると炊き上げられ新しいものと交換されていったことから現存しているものは非常に少ないのではないかと思われます。
※文献によれば販路は成田山不動尊や小見川町、片貝町とある。小見川町は現在も佐原市の東に位置する小見川町で、片貝町は昭和30年に町村合併で九十九里町になり東金市の東に位置している。招き猫に関しては達磨以上に近場の需要が主であったかもしれない。
※石井車偶庵・他(1976)によれば大木三郎は招き猫の制作は売れ行きが思わしくなく、1回限りでやめたとあるが、まったく制作しなかったのではなく、注文に応じてまとまれば制作していたようである。
※石井車偶庵・他(1976)によれば、招き猫の制作は戦後とある。戦前の記録には面はあっても招き猫にはふれられていない。また大木伊三郎のふっくらした招き猫は戦前の型とは思えない。掲載されている招き猫の写真は大木三郎作とあるが、これは大木伊三郎家の型であると思われる。大木三郎は伊三郎を手伝ったということなので大木三郎作になったのかもしれない。
※大木三郎家が現在の地で仏具店を始めたのは昭和元年なので、荒川千尋・他(1999)に大木家の創業は明治10年とあるのは大木伊三郎の系統を指していると思われる。
※「房総葛篭」で鈴木常雄氏が初代大木伊三郎宅を訪問したのは1937年。先代の新兵衛が張り子制作を開始したのはその4〜50年前とのことなので1890年代、つまり明治2〜30年代ということになる。明治10年に仏具店を創業しているようなので、それからしばらくして張り子づくりを開始したことがうかがえる。
※大木伊三郎家の招き猫に何種類の形があったかは不明である。
なお、三代目の大木良一さんは張り子製作はされていませんが、伝統的な手彫りの技術を継承していくと同時に、最新式のコンピュータとレーザーを使った細密彫りも行い、仏具の世界でいろいろなチャレンジをされています。こんなプレートのおみやげをいただいてしまいました。材質は竹です。ありがとうございました。 (招き猫は「ねこれくと」のトップページで招いているものを取り込んだものです。 |
光張り子の記録を残すためにはさらに大木三郎家から聞き取り調査をする必要がある。
参考文献
房総の郷土玩具(石井車偶庵・相場野歩、1976 土筆社)
「房総葛篭」(鈴木常雄、1938)郷土玩具図説第一巻(鈴木常雄、1980覆刻 村田書店)
招き猫尽くし (荒川千尋・板東寛司、1999 私家版)
郷土玩具1 紙(牧野玩太郎・福田年行編著、1971 読売新聞社)