豪徳寺の招福猫児(まねぎねこ)   
                                  編集続行中

招福猫児
 種類:土人形・他
 制作地:瀬戸?、今戸、多治見など
 授与:東京都世田谷区  豪徳寺
 
豪徳寺とは
 東京都世田谷区にある曹洞宗の寺院。大谿山豪徳寺
 世田谷城主吉良政忠が亡くなった伯母の供養に文明12年(1480)に弘徳院が建立された。弘徳院は伯母の名から名付けている。天正12年(1584)臨済宗から曹洞宗に改宗。寛永10年(1633)彦根藩世田谷領成立後、弘徳院を彦根藩井伊家の江戸菩提寺と定めた。万治2年(1659)に二代目藩主井伊直孝の法号にちなみ豪徳寺と改称された。それまでは貧しい寺だったが、直孝の娘の掃雲院により井伊家の菩提寺として発展するに至った。


招福猫児について
 豪徳寺の授与品であるので郷土人形の範疇からは外れるかもしれない。しかし授与品として歴史もありまた有名でもあるので、ここで取り扱うものとする。
 招福猫児は時代により制作地が異なり、またいろいろな種類があるので他の郷土人形のように○○制作の○○人形という言い方は当てはまらない。

 豪徳寺の招き猫がいつごろから売られていたかは不明である。しかし昭和の初期にはすでに豪徳寺門前で売られていたようである。昭和10年発行の「郷土玩具大成」には陶製と土製の招き猫の記述と画像がある。また昭和13年発行の「民俗信仰の玩具」(萬造寺龍、1938)にも右手挙げの招き猫(招ぎ猫)があったという記述がある。
 もとは門前にあった2軒の店が置いていた。1軒は跡継ぎが戦死で絶え、もう一軒の茶屋もやがて店を閉めた。跡継ぎが耐えた店は戦死ということから戦前のことである。もう一軒の茶屋が店を閉めたのはいつかは不明である。
 したがって、昭和の初めには存在したことがわかるが発祥は不明である。かつてはお茶屋が招き猫を扱っていたので元々は寺の授与品ではなかったようである。招き猫を扱う店も戦後なくなり門前の花屋山ア商店が寺の許可を得て扱い始めた。また寺でも授与していた。山ア商店は2009年7月31日閉店し、取り扱うのは豪徳寺の寺務所のみとなった。戦前・後の短い期間ではあるが境内に住んでいた宮大工・福原龍太郎により小数木彫の招き猫や祝い額が制作された時期があった(後述)。


 江戸おもちゃ考(酒井健、1980)の中に次のような描写がある。
 『粋なご婦人が、熱心にこのお堂をお参りしていた。すぐ左手に整理されたのであろうか壇上にきちんと何十体もの大小の土製の招き猫が置かれて、近くに愛猫の塔婆が10本ほどたっていた。境内で孫と遊んでいるおばあさんは「二十年くらいまえまでは門前で右手をあげた招き猫を売っていた。おいで、おいでと猫が手招きする招き猫は、縁起がよく、この招福観音にあやかって遠く赤坂あたりの芸者さんがよく見えたものです。いまは招き猫を売っているお店はありません。」と話してくれた。』
 いつ頃のことであるかはわからない。しかし粋なご婦人の参っていたのは今の招福殿であると思われる。またおばあさんの話から門前で売っていた2軒が店をたたみ山ア商店が招き猫を扱い始めるまでの間のことであると思われる。

 招き猫発祥の地として有名な世田谷区豪徳寺だが、猫が井伊直孝を招いたのは1600年代の前半。招き猫発祥の地に関しては後付けによる可能性が高いと考えている。招き猫の授与に関してはどこまで遡れるかは不明である。

古い招福猫児  
 郷土玩具大成第一巻東京編 
(有坂與太郎 1935)より
右(土製)と中央(陶製)の
二点が豪徳寺の招福猫児
豪徳寺の招福猫児は
右手挙げといわれているが
陶製は左手を挙げている

本では豪徳寺招猫となっている
「招福猫児」はいつごろから
使われているのだろうか

古型今戸人形の制作者
吉田義和さんによれば
今戸の「かぎ〆猫」に
似たものがあるという
豪徳寺の招き猫  
伝説の彦根(宮田思洋 1954)
表紙より
宮田思洋(1954)より

有坂興太焉i1935)に似るが
手は分離しており形態は異なる
鈴がついているが
招福の文字はない
今戸製か?
上記の表紙と同じ猫
ここでは「招福猫児」が
使われている
  豪徳寺招き猫
西沢笛畝(1964)より

これに関しては吉田和義氏による
復元および考察がある
豪徳寺の招福猫(昭和戦前風)
「竅v1975年1月号より

おそらくガラクタ百科の画像も
同時代の撮影と思われる
石粉順造撮影の可能性もあるが
定かではない
後ろの卒塔婆には招福猫児の
文字も読みとれる
「竅vより
すでにいろいろなサイズがあり

タイプもいろいろ混在する
ガラクタ百科
(石子順造、1978 平凡社)より

以下3枚掲載許可申請中
部分拡大
手が離れた今戸タイプもみられる
大きいものは前垂れがつく
ガラクタ百科
(石子順造、1978 平凡社)より

左右が今戸製(白井)
右が手が離れた古いものか?
ただし豪徳寺授与品かは不明
中央は別の招き猫で
このような猫が元になったのでは
ないかともいわれている
豪徳寺で授与される招福猫児はいろいろなサイズがある
いつごろから多種なサイズが授与されたのだろうか?
有坂(1935)の時代もそうだが、宮田(1954)の画像の今戸製のころは
それほど大きな猫を制作していたとは思えない
手の分離している今戸製は破損しやすいので他の製品に代わったとも聞いたことがある
西沢(1964)の画像の猫は戦前の作で産地不明とのことでいつごろの授与品であるかは不明
古型今戸人形の吉田さんがこの人形の行方を八方手を尽くしたが、
現在の所在は確認できなかったようである


いろいろなサイズが現れたのはおそらく多治見などで流し込みによる量産化になってからのことなのだろう
いろいろなサイズやタイプに関してはブログ「八郷の日々」の中の比較がおもしろい
私が撮影した奉納された猫の画像は20年ほど前のものだが
今と同じすっきりした前垂れなしが大部分を占めている

しかしその中に古いタイプの前垂れ付きも混ざっている
一体いつごろからいろいろなサイズがつくられ多彩になったのだろうか?

 


木彫の招き猫と祝い額  
 かつて父親が宮大工として昭和14年から25年まで一家で豪徳寺内に住んでいた
福原華一(風天かいち)氏の証言によれば、
 父親の福原龍太郎により昭和23年〜25年の3年間だけ宮大工の副業として小型の木彫招き猫を制作し
門前の花屋に置いてもらっていた。当時は坂の下にもう一軒、土の招き猫を売る店があった。
 龍太郎の木彫の招き猫の胸には「招福」という赤い文字が書かれていた。
これは土製の招き猫にはないものであった。(脚注1)
 同じ頃、注文を受けて大きな祝い額を制作していた。当時福原家は現在の招福殿あたりに住んでおり、
当時の招福殿はもっと奥にあった。(脚注2)
 門前の花屋は山崎商店、坂の下のもう一軒は茶屋の可能性がある。

     福原龍太郎((明治38年(1905)−昭和53年(1978))
     福原華一〔風天かいち〕(昭和11年生(1936)ー令和5年(2023)) 

 ※脚注1  (有坂與太郎 1935)の土製の招き猫の胸には「招福」の文字があるので、
         その後、宮田思洋(1954)にあるような土製の猫に代わったことが考えられる 
  脚注2  福原家では現在も残されている招福殿脇の井戸を生活水として利用していた
 
福原龍太郎の現存する木彫猫はひじょうに少ない
左は来る福招き猫まつり瀬戸会場で
自作の木彫を販売する風天かいちさん

豪徳寺時代の招き猫同様に
胸に「招福」の文字が入る
 
会場に展示されていた豪徳寺奉納額の印刷物

かつて車偶庵民俗文化資料館(現在は閉館)に
展示されていたというが
残念ながら見学したときに見た記憶はない
招き猫の文化誌(2001)より
著者の許可を申請中

左の猫はおそらく当時授与されていた
今戸製?を木彫で表現したものと思われる
 
すべて風天かいち作 木彫招き猫 (左から高さ53mm、65mm、51mm、33mm)
豪徳寺の招福猫児を意識していると思われる二点 
風天かいちは退職後、木彫招き猫の制作を始めた
豪徳寺境内に住んでいた子どもの時に
宮大工の父親を手伝い
木彫の手伝いや奉納額の塗装をおこなっていたという
退職後に始めた木彫は
角張った彫りで丸目の風天かいち独特の猫であった
しかし胸に赤で「招福」の文字は引き継がれていた
最近になって譲っていただいた
作品の中の上の二点は
かつての豪徳寺の招き猫、
そして父親福原龍太郎への思いが
込められているのかもしれない

晩年は闘病のため制作を中止していたが、
2023年(令和5年)死去された
かたぐるま  


豪徳寺招福猫児   
我が家の招福猫児
もう少しあった気がしたが・・・
頂き物の10号以外は
すべて山ア商店で購入(のはず)

高さ
後列
300mm
中列左から 
138mm
60mm
86mm
70mm
前列左から
68mm
61mm
18mm

高さ138mmの招福猫児は
4号かもしれない
いちばん小さいのが「豆」
そのとなり2体は「2号」
その後ろの2体は3号か?
右端は骨董店での購入
その中間サイズ
重さが他よりあるので
型抜きの可能性もある
2号と3号のその中間サイズ
重さが他よりあるので
型抜きの可能性もある
招福猫児は豆以外は
ブルーあるいは緑の
フェルトが貼ってある
小型のサイズは型に首玉や鈴の陰刻が
ないので手彩色で首玉や鈴が描かれる
ある程度の大きさになると
首玉の結び目や鈴が型としてつき
彩色されている
同じ2号でも左は古い
新しいと思われる型には結び目や鈴もつき、
尻尾の向きも逆である
また尻尾の脇に大きさを表す
2の数字が入っている
かなり長く豪徳寺に行っていないので、
最近の招福猫児はどのように
なっているのかは不明である
数字が入った猫は規格が決まった後の
型かもしれない

これまであまり気にしていなかったが
詳細に比較していくと実に多彩な猫が
存在するようである

いずれも1990年代の授与品と思われる
記憶に寄れば、もらい物の10号以外はすべて山ア商店で購入


2号は型が異なると思われる。面相も異なり、サイズや尻尾の向きも違う。
鈴も手書きではなく型に刻印がある。
尻尾の脇に「2」も文字が入る。おそらく号数だと思われる。
このころから規格が統一されてきたのではないか。最も小さいのが豆

招き猫・猫図鑑」では記録性重視のため
前後左右底と5方向からの画像を
掲載することを基本としている
招福猫児は制作者(地)も様々で
最近のものも多々変化しているので、
今回は5方向の画像を掲載していない
今後参考資料として代表的な招福猫児の
5方向画像を追加する予定はある
豪徳寺のホームページにある招き猫についての解説には次のような解説が載っている
招福猫児は、人を招いて「縁」をもたらしてくれますが、
福そのものを与えてくれるわけではありません
人との大切な縁を生かせるかどうかは、その人次第
報恩感謝の気持ちがあれば、自然とその人のもとに福が訪れる、
という教えから、小判をもたず、右手だけを挙げています

なるほど、右手は人を招き(諸説有り)か。もっとも小判持ちは比較的新しい型で
古い招き猫には小判をもたないタイプの方が圧倒的に多い
 


                                          

 これらをまとめると昭和初期には陶製や土製の招き猫が売られていた。それらの胸には「招福」あるいは「招」の文字があった。主に土製だったようである。
やがて戦後になり、福原家による木彫が短期間制作され胸には招福の文字があった。やがて今戸製の招き猫から量産化できる多治見などに産地が移っていき現在に繋がっているようである。戦後の招福猫児は招福の文字はなかったようである。

豪徳寺を歩く    


すでにかなり前から豪徳寺付近は
猫で売り出していた
ここに掲載されている画像は
古いものである
現在はさらに猫の露出度が高くなっている
世田谷線宮の坂駅前 すっかり街の顔になっている
暗渠になった烏山川 参道入り口 参道
山門から入ると正面に仏殿がある
季節によってはボタンやフジが咲いて
ひじょうに美しい
イチョウの開花時期には
落ちた雄花が地面を覆っていた
本殿は仏殿の裏にある
山門 仏殿
牡丹まつりも開催されている 藤棚 地面を覆うイチョウの雄花
本堂の左側に目的の招福廟がある
廟は建物を含めているようなので
中のお堂を招福殿と呼ぶのか
お堂も含めて招福廟でよいのかは不明
豪徳寺の公式HPでは
招福殿と紹介されている
招福廟 招福殿
右および下一列の画像は
2004年初詣の時

古い画像を見ていると
いろいろ見落としていたことに気づく
特に奉納棚を裏から撮影したものは
これ1枚だった
尾の向きが逆の猫がいた
しかも首玉が手描きではない 
 
  すでに午後、それほど混んでいない 尾の向きが異なる猫がいた
     
一体だけ尾の向きが違う 招福殿の見本は一体前垂れ付きだが頒布されていたものはなし 
前垂れなしになっている 絵馬かけ 別の年
   干支が入っていないころの絵馬
(左と下)

上の画像(2008)の絵馬かけは
すでに干支入りの絵馬になっている 
    
  2007年に撮影した画像では
干支の入っていない絵馬が掛けられている
あらためて記録することの大切さを確認する 
上の絵馬掛けの部分拡大  
2004年には
表が確認できる絵馬は
すべて招福の座布団座り招き猫だった
 
招福堂内に奉納されている額
  上の額と同じ方の奉納のようだ

「 ゐい鴨が居るよと招く豪徳寺」
ゐいは井伊に掛けているのか?
昭和31年7月奉納の額
 
招福猫児の供養塔はかつては井伊家の墓の裏あたりにあったらしい
それではお参りしにくいので現在の場所に移されたようだ
最初の招福殿は1932年(昭和7年)に建立されたとのことである
福原華一氏によれば(前述)当時の招福殿はもっと奥にあったとのことなので初代招福殿のことかもしれない
現在の招福殿は豪徳寺HPによれば昭和16年に建立されたとある。おそらく2代目になるのだろうか
そして最近になり改修工事がおこなわれて2022年(令和4年)7月1日から公開が始まった
いろいろな方の訪問記の画像を見ていると現在は招き猫であふれかえり、
供養塔へ行くのも大変そうな状況になっている



招福猫奉納所    
訪問のタイミングによって
奉納されている招き猫の数も異なる
招福伝が新しくなり、この画像も貴重になってしまった
この時は比較的数が少ない
前垂れ付きは古いタイプか?
顔の彩色も異なる
上とは別の年
これでもかなりの数の招き猫があふれている
最近になって
左の影になっているところに供養塔がある
負傷しても健気に福を招いた猫
「如是畜生発善提心」 招福猫児供養塔
多数の奉納された招き猫に圧倒されて目立たないが奉納台の左横に畜霊慰霊碑がある 
ひとつは「招福猫児供養塔」
もう一つは「如是畜生発善提心(にょぜちくしょうほつぼだいじん)」の菩薩?像  「是畜生発善提心」とする説もある。
動物には宗教心がないのでこのままでは成仏できない。だから宗教心をおこしそれによって成仏せよという祈りの言葉のようだ
後ろには卒塔婆を立てる枠がある
供養塔は後世のものなので、この菩薩像が移設した猫の墓のようである
ちなみに招福殿には「招福観音菩薩立像」が安置されている


                                          

 寺務所を覗く (主に2008年の画像)   
   寺務所前で猫が招く
寺務所    
最近の開運招福絵馬は
招福猫児と

その年の干支が
組み合わされているようだ
前回のねずみ年(2008)
のときの画像

干支のデザインは
12年毎に変わるのかは不明
開運招福絵馬には干支が入る    
  いろいろなサイズが
授与されている 
 招福観音招宝の数々  
 このころはたしか多治見製
(だったはず)
豪徳寺の寺務所(上)には縁起を担いでか
4号と9号はない
山ア商店(右)では4号もある
(9号は確認できない)
最近はいちばん大きいサイズは尺と
呼ばれているようだ
 
     

 

三重宝塔の猫たち  
  以前はなかった三重塔が2006年(平成18年)に
落慶し、ここにある木彫の猫も話題となっているようだ 
十二支の木彫と共に
十二支には入れなかった猫がいろいろな所にいる
鳩除けネットが残念
丑(左)と亥(右)に挟まれる
子に猫は共存している
これらの画像は落慶から間もない頃だが
最近はかなり日焼けしてしまったようだ
2004年(平成16年)正月
三重塔竣工前


招福猫児を授与(販売)していた門前の山ア商店   
 2009年7月で閉店した山ア商店
70年ほど営業していたらしい
戦前からの営業で
福原さん(前述)
招き猫も販売していた
手書きの看板もよかった
  上より古い2004年撮影の
画像が出てきた
  看板もトリミングなしで
使える画像が出てきた
(2004)

 現在は山ア商店はない。

ストリートビューより 
(2009年9月)
ストリートビューより 
(2009年9月)

すでに山崎商店が
あった場所は
更地になっていた
山ア商店は豪徳寺の
敷地内にあったの
だろうか?
かつて山ア商店があった場所(門の右手)    


まとめのようなもの

 さて問題の招福猫児だが何カ所か製作場所が変わっている。有坂(1935)の戦前の陶製のものはおそらく瀬戸方面だろう。土製はどこかわからない。西沢(1964)の猫も制作者も制作地もわからない。戦後になって制作された宮田(1954)は今戸(白井製)であろうか?もしかすると戦前の土製も今戸か?
 私が最初に豪徳寺を訪問した1990年代にはすでに愛知方面に製作場所が移り量産品になっていた。そのころには多治見製になっていたようである。このあたりのことは山ア商店で聞いたのだが失念してしまった。
 大小いろいろなサイズが登場したのも流し込みで大量生産できるようになってからのはずである。ただし以前はサイズによる号数はあるが大きさははっきり決まっていなかったようである。その後これでは困るのでサイズが確定したような話しをどこかで聞いたことがある。寺の寺務所では4号と9号は欠番となっている。おそらく縁起を担いでのことだろう。しかし山ア商店には4号もあった。どちらも製造元は同じ?はずなので授与する場所で号数が変わっていたことになるのか?そう考えるときわめて大らかに授与されていたのである。
 そういえば現在は尺と呼ばれている一番大きな猫も以前は10号と呼ばれていた。
 手元にあるのはすべて1990年代のものなので画像は今の授与品と多少の違いがある。
 15年前に訪問したのが最後なのであらためて最新の状況を調べに行く必要がある。


                     −−−−−−−編集続く−−−−−−−


                                          


         豪徳寺公式HP


     豪徳寺の招き猫 (2015) 吉田和義ブログ

     八郷の日々「豪徳寺の古い招福猫児」 (2017)
     八郷の日々「豪徳寺の招福猫児」    (2023)



参考文献
日本郷土玩具 東の部(武井武雄、1930 地平社書房)
おもちゃ通信200号(平田嘉一、1996 全国郷土玩具友の会近畿支部)
招き猫博覧会(荒川千尋・板東寛二、2001 白石書店)
民俗信仰の玩具(萬造寺龍、1938 書物展望社)
猫の王(小島瓔禮、1999 小学館)
江戸 おもちゃ考(酒井健、1980 創拓社)
吉祥招福 招猫画報(日本招猫倶楽部編、1997 AG出版)
招き猫の文化誌(菊池真・日本招猫倶楽部、2001 勉誠出版)
招き猫の文化誌(宮崎良子、1988 青弓社)
伝説の彦根(宮田思洋、1954 彦根史談会)
郷土玩具大成第一巻東京編(有坂與太郎、1935 建設社)
日本郷土玩具事典(西沢笛畝、1964 岩崎美術社)
竅@人間賛歌1975年1月号(竢o版社、1975 竢o版社)
ガラクタ百科 身辺のことばとそのイメージ(石子順造、1978 平凡社)
猫神様の散歩道(八岩まどか、2005 青弓社)
猫神さま日和(八岩まどか、2018 青弓社)
猫めぐり 日本列島(中田謹介、2005 筑摩書房)