三河の復活招き猫・・・三河 大浜土人形   平成17年4月9日訪問

 かつて数多くの土人形の産地を抱え、またたくさんの招き猫を作り出した三河地方ですが、現在ではほとんどが廃絶してしまいました。
 そのような中で、うれしいことにひとつの招き猫が復活しました。それは高山八郎さんの旭土人形と同じ碧南市でかつて生産されていた大浜土人形です。昭和23年碧海郡大浜町・棚尾町・新川町・旭村の4町村が合併し碧南市になりました。旧町村ではそれぞれの町村名が付く土人形が作られ、まさに土人形の一大生産地であると共に、そのもととなった三州瓦の生産地でもありました。今回復活した招き猫はその旧大浜町で制作されていたものです。
 そのような大浜土人形も今から十年以上前に制作休止になり、事実上廃絶状態となっていました。そして平成14年人形制作者の禰宜田(ねぎた)章さんが亡くなるとともに廃絶してしまいました。しかし翌15年には制作が再開されました。その三代目であり現制作者が今回紹介する禰宜田章さんの次男である禰宜田徹さんです。
 山形張子のときと同じNさんの仲介で紹介して頂き、禰宜田さんとは昨年から連絡を取っていました。しかしこのような場で紹介するためにはいろいろとお話を伺う必要があります。また招き猫も高さ30cmを超えますので車で取りに行かないと運搬が不安です。そのようなことから、せっかく取り置きして頂いたのに受け取りが延び延びになっていました。そのようなとき、中野ひな市でお会いしたのを機会に取材日程が急きょ決まりました。
 禰宜田さんは「ねこれくと」を連絡する以前から見てくださっていたとのことで、今年は中野土人形のコレクターとしても有名なMさんの誘いで、中野ひな市にご夫婦で見学にみえたのでした。ちょうど折しも土人形資料館では大浜土人形の展示を行っていました。


大浜土人形とは・・・
 大浜土人形にはかつて何人かの制作者がいました。大きく分けて2系統あり一つは明治25・6年頃人形つくりを始めた美濃部四市とその兄の美濃部泰作で昭和4・5年まで制作されました。もう一つが禰宜田家で、明治29年禰宜田佐太郎により創始され、その後2代目章、3代目徹と一時期中断はあったものの今に引き継がれています。さらに禰宜田家の親戚筋で、佐太郎の研究を助け自らも制作した医師でもある榊原庄松、榊原庄松の弟子の榊原文治郎・石川宗太郎も制作をおこないました。歌舞伎物・武者物が多く、組み物も多く制作されました。

  
大浜土人形最大の招き猫


いよいよ訪問・・・
 4月上旬、いよいよ待ちに待った訪問の日となりました。夜中に出発し、碧南市に到着したのはそれほど遅い時刻ではなかったのですが、目的地がなかなか見つかりません。近くの駅の観光案内所で地図をもらって目的地へ向かっていると、禰宜田さんから電話がかかってきました。家の前で禰宜田さんご本人が立って待っていてくれました。ひな市で一度お会いしていたので遠くからでもすぐわかりました。敷地内にある制作工房の離れでいろいろとお話を伺うことになりました。
 先代の父でもある章さんは平成14年に亡くなられました。ご本人の話では「祖父が築き父親が育てた三河大浜土人形、父親の生前は親孝行らしき事は何もできず、せめて供養にと制作を始めた」とのことですが、やはり物作りの血が騒いだのではないでしょうか。 禰宜田徹さんはこれまでまったく土人形作りに関わってこなかったわけではなく、子どものころ型抜きや簡単な彩色を手伝ったことがあるそうです。現在使用している絵の具皿などを入れる小さな棚も40年程前に父親の章さんと一緒に作ったのだそうです。そうはいっても本格的にやったわけではないので、実際に自分で制作を始めるとわからないことばかりだということです。絵の具の色も思った色がなかなか出ず、ニスを塗るとさらに色合いが変化するため試行錯誤の連続だということです。また「顔はかなり父親の物に似てきたが細い線はまだまだ」とこれからの課題も話して頂きました。
 現在、人形制作はひとりでやっていますが、型の管理など奥様と二人三脚で取り組んでいます。しかし、禰宜田徹さんは会社員であり、現在のところ人形制作は休日や夜間しかできません。自称「週末起業家」ということですが、2年足らずでここまで大浜土人形を復活させました。退職後は土人形制作を本格的にやっていくとのことですのでこれからが楽しみです。
 禰宜田家にはかつて300近くの型があったということですが、現存するのは70程とのことです。また、禰宜田さんの手元にはあまり先代の完成作品は多く残されていません。
しかし、幸いにも作品の写真やかつて販路先であった近郊の地域に多くの作品が残されており彩色の見本には困らないそうです。
 大浜土人形は人形の凹凸が大きいため、土の型入れも均等な厚さにするのがたいへんで、さらにそれを型抜きするのもひじょうに難しいそうです。また2枚合わせたときにぴったり合うことはほとんどなく、合わせ作業もひじょうに難しいとのことでした。たしかに完成した「弁慶」や「加藤清正」を見ると、ひじょうに凹凸があるのに横から見ると奥行きが小さく制作の難しさがわかります。招き猫は比較的作りやすいようですが、それでも足の部分はかなり前に突き出ているのでその部分の型押しと抜きがたいへんだそうです。凹凸が大きいということは彩色も難しくなります。
 三河地方の土人形には同じような型の土人形がたくさんあります。これは土人形制作者の寄り合いで型の交換がおこなわれていたからだそうで、そのような場で価格も決めていたそうです。ただその家の目玉になる作品の型は交換されることはなかったそうです。
 かつて制作されていた大浜土人形はほとんど仲買人によって引き取られ、現在も張り子達磨の運搬で使われているような竹かごに入れられて運ばれ、近くの足助(あすけ)などの地域で販売されたようです。そのようなことから現在でも多くの作品が周辺の地域で個人や資料館により所蔵されているとのことです。また初代佐太郎は女物が、二代目章は男物の組み物が得意だったとのことです。
 招き猫ですが、サイズは4種類あります。大型の左手上げ(高さ約33cm)、中型の左手上げ(高さ約17cm)と右手上げ(高さ約16cm)、さらに小型の左手上げ(高さ約12cm)です。なぜか中型の高さ16cmの招き猫だけは右手上げで首の飾りが鯛になっています。この鯛の飾りは後付ではなく、型の段階で付いています。従来の大浜土人形の招き猫は4種類ともすべて白猫でした。今回制作された黒猫は徹さんが依頼を受け制作したとのことです。黒猫といわれてもこれまで制作されていないのでどのように彩色してよいかわからず、試行錯誤の結果、現在のようになったとのことです。首の鯛は大型招き猫にはなかったもので後付になっています。これは3代目オリジナル作品でひげの描き方などもなかなかおもしろいと思います。
 招き猫は徹さんの記憶ではそれほど多くは作られていないようで、どちらかというと親しい人たちに贈るような目的で制作されたものが多かったようです。ちなみにいちばん大きな招き猫の型には初代佐太郎が型を作ったことを表す「佐」の文字が入っています。

   
 中型・小型の招き猫
 大型招き猫の型  中型招き猫(鯛付き)の型  中型招き猫(鯛なし)の型



「弁慶」禰宜田徹作  「加藤清正」禰宜田徹作
「加藤清正」も横から見るとこんなに薄い 「「弁慶」の型。写真では
わかりにくいが型の奥行きは
ひじょうに小さい

           

 先代禰宜田章作の作品群  招き猫中型 禰宜田章作
招き猫大型の背にある「佐」の文字
ロールオーバー画面は型にある「佐」
 禰宜田徹さんの初めての作品群   制作者の禰宜田夫妻

これからの大浜土人形・・・
 さて現在、大浜土人形は売れ筋を中心に制作していますが、これから残されている型からまだ制作していない人形の制作や痛んだ型の修復などやることはたくさんあるようです。
 また人形制作を始めて、多くの支援者をはじめとし、新たに土人形を通した人のつながりが広がったそうです。「祖父、父親の技には遠く及びませんが 一歩でも近づけるよう努力いたします」とおっしゃる禰宜田さん。大浜土人形の伝統を受け継ぐと共に黒い招き猫のように3代目禰宜田徹さんのオリジナル性あふれる招き猫がこれからも生み出され、人の輪と大浜土人形の招き猫の輪が全国に大きく広がっていくことを願っています。
 なお、大浜土人形は先に書いたように現在はまだあまり多くの制作数を望めません。したがって、直接販売しかしておらず、注文する場合も少し完成までに時間がかかるとのことです。

離れにある工房 彩色途中の招き猫など


     大浜土人形の注文・問い合わせ先
            〒447−0836
            愛知県碧南市若松町1−25
            禰宜田 徹

 禰宜田さんはふだんは会社勤めですので、迷惑のかからないようにご連絡ください。