小松市『猫宮』を探しに行く

 以前加州猫寺調査を石川県立図書館で調査中、司書の方から紹介された本の一冊に「加賀の串 遊女の墓」(川良雄・池田己亥一、北国出版社、1972)があった。コピーはとったが、メモが行方不明になってしまったので署名が不明であった。この本に猫宮が小松市の旧茶屋である串町にあることが記されている。金沢までは行くもののなかなか時間がなく、いつか見に行きたいと思っていた。今回は石川県立博物館での調査方針も定まっていなかったのでそちらはキャンセルし、出かけてみることにした。手がかりはこの本の記載だけで住所はまったくわからない。
 この小松市の猫宮は「猫神様の散歩道」(八岩まどか 青弓社 2005)や「猫めぐり日本列島」(中田謹介 2005)にも紹介されていない。「猫の歴史と奇話」(平岩米吉 池田書店1985)、「猫の民俗学」(大木卓 田畑書店 1975)、「ねこ」(木村喜久弥 法政大学出版局 1959)といった猫関係の定番ともいえる書籍にも見あたらない。龍昌寺と同じように地元では知られていても、全国区的にはある意味では忘れられた存在になっている。これは招き猫とは直接関係がないものの紹介するしかない。

 小松市立博物館に行って情報収集することにする。ここには大学時代収集した植物化石が収蔵展示されているはずだ。小松博物館には久しぶりに行く。30年ぶりくらいだろうか。小松市内は小さくまとまっているが、そこそこの大きさがある住みやすそうな街だ。
 館内は今展示入れ替え中で自然科学部門は閉鎖中だった。人文関係部門だけ見学する。帰りがけに学芸員らしき方に大学時代お世話になったS先生のことをうかがうと、今日はみえていないがお元気に化石の整理をされているとのことだった。
 猫宮についてうかがうとよくわからないとのことだが、目標になる遊女の墓は有名なようで付近の様子や資料館のことを教えてもらった。この資料館が目標だ。

小松市立博物館(林の中)
串茶屋民俗資料館

 カーナビにもこの資料館は掲載されている。さっそくセッティングして向かう。それほど遠くない距離だ。すぐ近くに着いたのだが、問題は駐車場所だ。近所をぐるぐる回る。こんな時車は不便だ。


 串町公民館のとなりにある串茶屋民俗資料館を訪ねる。一般の民家を資料館にしたようだ。鍵がかかっている。電話番号が書いてありそこに連絡すると開けてくれるようだ。館長さんに電話をすると今日は金沢にいると言うことだ。残念ながら今日の見学は不可能となってしまった。せっかくなので猫宮についてうかがうと、かつて小学校の近くの交差点付近にあったが今はないという。何と言うことだ。やはり遅かったか。しかし社は串神社に移設したらしいとのこと。詳細はよくわからないという。暗雲が立ちこめてきた。

 まずは街の散策で、遊女の墓の見学だ。小高い丘の上にある。かつて狐塚とよばれた丘陵だ。いつしか狐森と呼ばれるようになったようだ。史跡の標識が立っている。一番奥に地蔵がありそのまわりが遊女の墓だ。これだけ遊女個々の墓が多くまとまっているところはあまりないという。かなり痛みの進んだ墓石もある。風化と共に近年あった能登沖地震の影響で痛みが加速したそうだ。六地蔵の中には六地蔵のいわれと遊女の墓の配置や墓標の文字の解説は置いてある。串茶屋遊女の墓保存会が調査作成したものだ。残念ながらこの会は会員の減少と高齢化により現在は解散したとのこと。小さな町では多額の補修費は出せず、今後の保存が問題なのだそうだ。

この坂の上にある   説明板(表)    説明板(裏)
六地蔵の由来  遊女の墓見取り図  墓石はかなり痛みが激しい
ここらあたりがかつての狐塚?

 墓地は3回移転されているのだそうだ。墓石には歳が記されているものもあるが、やはりみな若い。それだけ過酷であったのだろう。

 すでに茶屋の建物は現存しない(移築はされているらしい)そうだが、古い時代を忍ぶ建物は何件が見受けられる。

 一里塚 串茶屋バス停
  三階の松跡

 公民館近くにある正八幡神社の寄る。ここには遊女の石灯籠があるそうだ。社殿は無人のようだ。賽銭箱もない(社殿の中?)。どうも掲示物から見ると賽銭をねらって侵入者があったようだ。社殿の脇に小さめの社がある。この鳥居の両脇に遊女の石灯籠がある。遊女の石灯籠といっても茶屋が奉納したもので幕末の文久(1861〜84)の元号が読み取れる。今から150年ほど前だ。

正八幡神社
遊女の石灯籠 文久の元号が見える

 目指すは串小学校。途中に町内の案内板がある。場所の確認に見ると、何と猫宮がある。しかも2カ所、・・・。とりあえず行ってみるしかない。

 猫宮はあった!しかし・・・・名前だった。猫宮さんなのだ。でも場所からすると小学校の近くなのでもしかすると猫宮があったから猫宮さんなのかもしれない。ただし真相は不明。何か痕跡か本に載っていた場所と似たところはないか付近を散策する。猫宮さんの裏手に何か気になる石がある。もしかしてかつての社の一部???いやな予感がする。
 それ以上の手がかりがないので串神社に向かう。

猫宮が・・・、しかも2軒・・・
猫宮はあった!
二軒の猫宮さん もしかしてこれは・・・

 いよいよ串八幡神社に向かう。地図を頼りに行くとちょうど鳥居と石灯籠の設置をしていた。なかなか見られない光景だ。鳥居はばらばらのパーツを組み立てるという感じだ。ずいぶんイメージと異なってパーツは多いようだ。
 境内にはいるとやたら奉納物が多い。そういえばさっきの正八幡神社にも見られた。よく見ると初老祝いで、55歳になったときみんなで奉納する習慣があるようだ。
 お参りを済ませ、奉納品を見ているとそれらしい石造りの祠があった。近づいてみるが何も文字は刻まれていない。唯一の手がかりであるコピーと見比べてみるが、網掛けで粗い写真なので確実に同じとはいえない。しかし欠けている部分が同じようなのでほぼ間違いないだろう。
 猫塚は何の表示もないまま、静かに神社の敷地の片隅で眠っているのだった。はたして町民の中にも何人その存在を知るものがいるのだろうか。やがて忘れ去られていく運命にあるのかもしれない。何とか記録にとどめておくためにもこのねこれくとで紹介しておきたい。

  珍しい光景 鳥居と石灯籠の設置
 寄進物がやけに多い   見つけた!!

 猫宮の伝説には次のようなものがある。
 『狐森には、僧侶に化けた老狐が、遊女に化けた老猫の多くの遊客を喰い殺したのを怒り、これを殺さんとして、反って死するに至ったのを憐み、一祠をつくって祀ったものがあった。また人を殺した老猫にしても死んだ上はといって隣の串に猫宮なる祀堂が建てられていた』   「加賀の串 遊女の墓」(川良雄・池田己亥一、北国出版社、1972)より引用
 さらに同文献の中からストーリーを要約すると「木下という妓楼で老猫が遊女に化け、客を喰い殺していた。それに怒った老狐が僧侶に化け説話に集まった人の中から奉行を助っ人に得て、退治に行った。翌日行ってみると喰い殺された人の骨が床下から出てきて、化け猫と老狐は並んで息絶えていた。人々は妖怪のこととはいえ、串に猫宮、今江に狐塚を築き供養した」となる。この伝説は大正11年に出版された「御幸のひかり」より引用掲載されている。時代は寛永十七年(1640年)のことである。はたしてそんなに古い祠であろうか。風化の具合を見てもそこまで古いものとは思えない。あとからつくられたものなのか。それとも二代目三代目だろうか?

 串茶屋の起こりも、

  これが猫宮だ 裏側
行きとは反対側。こちらが正面のようだ
日が傾ききれいな暈がかかっていた


 かつては芝居小屋もあり、今の静かな町並みからは想像もできないくらいにぎわったのだろう。
 そのような串町をあとにして、猫宮の写真を求めてキャンセルしたはずだった石川県立図書館に向かうのであった。